ミルクティーの雨

創作物倉庫 兼 身内向けのブログ

クレイドル

01

ある日世界に神さまが降り立ってこう言いました。
「少女には夢を与えましょう!」
その日から、地球の少女は夢を見る生き物になったのです。
それは西暦三〇〇〇年の出来事でした。宇宙に発見された地球とよく似た環境の、地球よりずっと生活に適した惑星への移住が本格的に始まってからちょうど十二年の時が過ぎた頃でした。外星――外国と同じように地球以外の惑星の事をわたしたち地球人はそう呼びます――にも少女という生き物が生まれる頃でした。
神さまの言う少女というものは定義が曖昧で、ですが女として生まれたからには必ず少女になります。時期は人それぞれですが、少女になると女の子はみんなぱたぱたと眠りに落ちて、そして『クレイドル』に運ばれます。そしてみんなでみんなの夢を見るのです。
クレイドルというのは神さまの管理する少女の寝床です。そこには大人の女性が少女たちの眠りを守るために働いていると聞きますが、夢の中の少女たちはそれを知りません。どころかここに来るまでの事は何一つ、自分が少女であるという事以外はなにもかもを忘れてしまいます。そして少女でなくなる時が来たら、クレイドルで過ごした夢の事も忘れてしまうのです。それが少女という生き物なのです。
わたしという少女はどうやら十一歳になる頃少女として神さまに見初められて、まっさらになってこのクレイドルに来ました。
クレイドルでの事は全部ママが、そう、わたしたち少女はみんな神さまの事をママと呼びます。ママはとっても美人さんで、わたしたちをとても愛してくれています。そのママがクレイドルでの事は全て良いようにしてくれます。かわいいワンピースみたいなパジャマをくれるし、ふわふわの専用のベッドも(夢の中なのに)あります。わたしたちはおいしいお菓子といい匂いの紅茶でお茶会をしたり、みんなでママの読んでくれる本の内容に耳を傾けたり、お花畑で花冠を作って遊んだり。それは全部夢の中での事ですが、ママの作ってくれた優しい少女の国でママに愛されて、そして応えるようにママに恋をして少女期を過ごし、そして大人になるのが、地球の女の子の普通なのです。
けれど普通じゃない子もいます。ママはその子の事をすごく気にかけていて、わたしたちはなんだかそれが面白くありません。
「わたしに恋をしてくれない少女なんて初めてだわ。それに誰とも仲良くしてくれないの。あの子は少女になるのも遅かったし、心配だわ」
ママは困ったように溜息を吐きました。わたしはその時ママの膝を枕に寝転んでいて、ママの溜息が目の前にぽとりと落ちて来た気がしました。だからわたしはママの憂いを拭ってあげたくなって、任せてママ、そう言ってしまったのです。そうすると、ママは本当?とわたしに目を剥けてくれました。それがとっても嬉しくて、わたしは勿論よと胸を張りました。ママはわたしを、ぎゅっと抱きしめてくれました。
「ありがとう、あなたはママの天使さまよ!」
それはクレイドルの少女みんなが言って貰える愛の言葉でした。あの子にもこれを聞かせてあげよう、わたしは心に決めて、その子の元にビスケットと紅茶のポットの入ったバスケットを持って行ってみました。
その子は一人で本を読んでいました。クッションも置かれていない木のベンチに腰掛けて、静かに小さな本のページを捲っています。その本は綺麗な挿絵なんて無くて、表紙もうすっぺらい紙一枚に文字が書かれているだけ、お姫様も出て来ないのだと、それは後から聞いてびっくりした話だったけれど、その時のわたしはなんてつまらない本を読んでいるのだろうと本当にびっくりしてしまったのです。
「ねえ、その本面白い?」
「あなた面白く無い本を読むの?」
向けられた言葉にわたしはきょとんとしてしまいました。この子何を言ってるのかな、そんな事を思います。本当に言っている事がわからなくて、いいえ、わたしは首を横に振りました。
「わたし本は読まないわ。ママが読んでくれるのを聞くのが好きなだけだもん」
「『ママ』」
その子は口端を歪めて笑いました。そんな笑い方をする子はここにはいないので、わたしはこの子は本当に変わっているのだなあと思うばかり、けれどそんな事よりも、ママの不安を理解出来た事の方が嬉しくて、わたしはこの子を『みんなと一緒』に連れて行く決意をしたのでした。
「あなたたちってそればかりね。私はあんなやつの読み聞かせを聞くような子どもじゃないわ」
「どうしてママの事あんなやつだなんて言うの?ねえ、本なんか読んでないで、みんなで一緒にお茶会しましょ?あなたずっと一人きりのまま少女を過ごすなんて、そんなのさみしすぎるわ」
「勝手に決めないで」
ぱたんと本を閉じたその子はわたしを睨みました。誰かに睨まれるのなんて――少女になってからは――初めてで、わたしはまたとてもびっくりしてしまったのでした。
「私は私が好きだから本を読んでるの。あなたたちとお茶会をしたり、あの女神の声を聞いてうっとりするよりも、一人で本を読んでる方がずっとずっと楽しいわ」
「……そうなの?」
わたしが首を傾げると、その子も首を傾げました。
「そうなのって、何?」
「わたし、あなたがものすごくシャイな子なのかと思ってた……」
それに答えたわたしの言葉に、その子はとてもとても、本当にとても深い溜息を吐き出しました。それからわたしをまた睨んで、失礼な妄想をしないで頂戴、とわたしに低い声で言ったのでした。
「私は私の好きなように過ごしてるだけよ」
「そうなのね。ごめんなさい」
「……わかったのならどこかに行ってくれない?一人でいるのが好きなの」
「うん。でもわたし、ママにあなたの事任せてって言っちゃったから」
けれどわたしも引く訳にはいきません。少女の一人として、あたりまえにママのためになる事がしたかったのです。
「だから、わたしも本を読むわ。ねえ、お姫さまが出てくるお話は無い?」
少女ってこれだから。その子はやっぱりわたしを睨んだけれど、わたしのために童話を一冊貸してくれたのでした。

 

 

 
02

あの日からわたしたちは一緒に本を読むようになりました。自分で本を読むのはやっぱり退屈だったけれど、それでもわたしはママのためだと思って我慢して必死で文字を追いました。その子はけれど、本を読むのも楽しそうには見えませんでした。いつも静かにページを捲るだけで、にこりとする事も、涙を零す事もありませんでした。だからわたしは気になって、ねえ本当に面白いの、聞いたのですが、あなたにはわからないわ、と言われてしまいました。
「わからないなんて、さみしい事を言わないで」
「別にさみしい事なんかじゃないわ。価値観なんて人それぞれよ」
「だけどあなた、本当にたったひとりだわ……さみしいわよ」
わたしは少し泣きたい気持ちになりました。その子と一緒にいればいるほど、その子が一人きりである事を痛いほどに知ってしまったのです。本はおしゃべりしてくれないし、一緒にお菓子を食べてもくれないし、頭を撫でてくれる事もありません。少なくとも、その時のわたしはそう思ったのです。
その子だってクレイドルの少女の仲間なのだから、みんなと一緒におしゃべりをして、お菓子を食べて、ママに頭を撫でて貰ってほしい。わたしはその子に対して、そんな事を考えていました。だからわたしは、ねえ、と本に栞を挟んでその子に話しかけました。ずっと考えていた事を、とうとう口にする決心がついたのです。
「あなた誰にも名前を呼ばれないじゃない?わたしが考えてあげる!」
「いらないわ」
わたしはなんでかとても傷ついてしまいました。本当に泣いちゃいたい、それを必死で堪えながら、そんな事言わないで、そう言って用意していた名前を教えました。
「ねえ、ルビーってどうかしら。わたし赤い色が好きなのよ」
「勝手につけないでくれる?」
「ルビー!ほら返事をして」
「嫌よ」
そこまで来るとわたしは本当に泣きだしてしまいそうで、唇を噛んでそれを耐えました。そうして俯いていると、その子――ルビーは、ルビーも栞を挟んで本を閉じて、小さく息を吐き出しました。
「私がルビーならあなたはサファイアね」
「どういう事?」
「ルビーじゃないって事よ」
「……どういう事?それって素敵な意味を持つ名前?」
クレイドルでは、みんな思い思いに友達の事を呼びます。ママにも、名前をつけて貰えます。わたしはアイリスとママに呼ばれていましたし、友達には優子とか、パピヨンとか、お姉ちゃんとか、他にもたくさんの名前がありました。クレイドルの少女は、生まれた名前を持ちません。だからそうやって、誰かに自由に呼んで貰う事が出来るのです。クレイドルはとても自由で、そして愛に満ちた所です。それはママがそう望んでいるからで、わたしたちはみんな、ママの願いを叶えてあげたくて一生懸命になります。それがクレイドルの少女です。わたしも、ルビーも。クレイドルの少女でした。わたしたちは、愛情を、素敵な意味を込めて友達を呼びます。クレイドルの少女は、そうだと決まっているのです。
だからきっと、ルビーもわたしに素敵な意味と愛情を込めてくれたのだと、わたしは思いました。けれどルビーはまた、口端を歪めて笑うだけ、わたしに愛なんて、ひとかけらだってくれないのでした。
「あなたって本当に少女ね。それ以外の何者でもないわ」
「どういう事?」
「あなたってそればかりね。……いいえ、あなただけじゃないわ。みんなそう。だから私にとって、あなたはただの『みんな』だっていう話よ」
ルビーは閉じた本を持ってベンチから立ち上がりました。私もう行くわ、ルビーは言って、それから座ったままの私を振り返りました。ルビーはいつも、私を睨んでいました。
「私、あなたの事が嫌いだわ。もしかしたら女神以上に。だってなんでもないんだもの。気持ち悪い」
「……わたしはルビーの事が好きよ?」
「だから何だっていうの?」
ルビーの言葉は棘が生えるようで、私はなんだか耳が、そして体の中が、ちくちくと痛むのを感じました。ルビーはそれだけ言うと、すぐに立ち去ろうと足を進めました。私は慌てて後を追って、待って、その手を掴みました。
「ねえ、ママの所に行きましょう。そうしたら、きっとママの事好きになるわ。それにみんなとお友達になれる。みんなに紹介するわ、あなたがルビーだって」
わたしの話を、ルビーはとてもつまらなそうに聞きました。その表情を見て、わたしは何故か、ああルビーは本を読むのが本当に好きで面白く思っているのだ、という事を理解しました。ルビーは、そして本当に、わたしの事が嫌いなのだという事も、わかってしまったのでした。
「私ね、ママって言葉を使う子が嫌い。だけど私、母さんの事をママなんて呼ぶ女の子だったかもしれない。それがすごく怖いわ」
「ルビー?」
「……あなたにはわからないんでしょうけど」
ルビーはわたしの手を解いて、あの、口端を歪める笑い方をして、私を呼びました。サファイア。わたしはそれがとても嬉しくて悲しくて、ルビー、私が呼ぶ声は、震えてしまっていました。
「ねえ、大好きなママに何かもわからない恋をしてるサファイア。私あなたの好きが嫌いだわ」
いやよルビー、嫌いになんてならないで。それが言いたかったのに、どうしても言えなくて、わたしはただ、遠ざかっていくルビーの背中に伸ばせない手でスカートを握っていたのでした。

 

 

 

03

「ルビー」
その日もルビーはベンチで本を読んでいました。わたしがいてもいなくても、ルビーはいつも通りに本を読んでいました。わたしの声に顔を上げてはくれたけれど、心底嫌そうな顔をしているのが、わたしにもわかりました。
「あなたまだ来るのね」
「……サファイアって呼ばないの?」
「呼んでほしいの?」
ルビーは口端を歪めて笑いました。思えばこの子がきちんと笑った顔なんて見た事が無くて、わたしはそれがとても、悲しく思えたのでした。
「あなたがくれた名前だもの」
「他の子が沢山名前をくれるでしょう」
「だけどあなたのくれた名前がいちばん綺麗だわ」
そう聞こえたのよ、わたしが言えば、ルビーは呆れたように、それでも本を閉じてわたしを見てくれました。わたしは少し迷って、ルビーの隣に座りました。いつもよりほんの少し近くに座ったのに、ルビーは何も言いませんでした。ルビーは、サファイアはね、と、いくらかかみ砕いたかのように、いつもより柔らかく、わたしに教えてくれました。
サファイアっていう石はね、コランダムっていう石につけられる名前よ。赤はルビー、それ以外は全部サファイア。だからあなたはサファイアなの」
私じゃない他の全部よ。ルビーはそう言ったけれど、わたしには別な風に聞こえました。
「わたしとルビーは一緒なの?」
「……一緒にしないで」
コランダムという石が、どんな石なのか、わたしは知りません。けれどルビーと一緒だった、それがすごく嬉しかったのです。ルビーは迷惑そうに顔を歪めて、けれど、すぐにいいえ、と言葉を翻しました。その横顔が悔しそうで、酷く機嫌が悪そうで、そんな横顔を、わたしはクレイドルで初めて見ました。多分、きっと、だから、わたしはルビーから目が離せませんでした。
「でもそうね。私はルビーでありたいけれど、ここにいるっていう事は。結局私もサファイアで――少女でしかないんでしょうね」
「ルビー……」
俯いた横顔はどこか悲しそうで、わたしは無意識にルビーの手に触れていました。ルビーの手はとてもあたたかくて、涙を流すまいと堪える瞳はきらきらと輝いていました。わたしはその時、はじめて自分の心でルビーの友達になりたいと思いました。いいえ、友達なんかじゃない、ルビーの一番になりたいって、そう思ったのです。
「ねえ、本を読みましょう。わたしあなたが好きな物語を読みたい」
「私、お姫さまが出てくる話は好きじゃないの」
「いなくてもいいわ」
わたしの言葉に、ルビーはきょとんとした顔をしました。初めて見るルビーの顔に、わたしはなんだか嬉しくなって、触れていた手を握ってしまいました。だけどルビーは解かなかった。わたしはルビーの手を握りしめて、ルビー、名前を呼んで、その珍しい顔を見つめました。
「言ったでしょう。あなたの好きな物語が読みたいの。……あなたの事を知りたいの」
それは自然と出た言葉で、わたしの願いでした。ルビーの事をもっと知りたい。もっと近くに行きたい。そう思ったのです。
ルビーは視線をさ迷わせて、それからたくさん考えて、ようやく小さな声でいいわ、と言ってくれました。
「つまらないって、言わないって約束するのなら、いいわ」
「もちろん!」
わたしが約束すると、ルビーは本を貸してくれました。お姫さまも王子さまも魔法使いも出て来ない、恋なんて探す事も出来ない、離別の物語でした。けれどとても美しい、そう思わせる物語でした。わたしが長い時間をかけてようやく本を読み終わるまで、ルビーは私の隣で待っていてくれました。本を閉じたわたしに、ルビーはどうだった、と尋ねて来ました。わたしは笑って答えました。
「ありがとうルビー、素敵なお話ね」
するとルビーも、初めてわたしに、柔らかい笑顔を向けてくれました。
「……ありがとう、サファイア
それはまさしく花が綻ぶような、そうでなければ星の零れるような、そんな綺麗な笑顔でした。
それからわたしとルビーはいつも一緒に本を読むようになりました。二人別々の本を読む事がほとんどで、けれどそれが全く苦ではありませんでしたし、寂しいとも思いませんでした。だって別々の本を読んでいたって、ルビーはきちんと隣にいて、わたしたちは本を読み終われば感想を言い合って、その本を互いに薦め合うのです。とても楽しい毎日はあっという間に過ぎて、わたしはそういえばママにルビーの事は大丈夫だと言うのをすっかり忘れていた事を、随分経ってようやく思い出しました。
慌ててママの元へ行って、ルビーは大丈夫よ、とても素敵な少女なのよ、そんな事を伝えると、ママは穏やかに微笑んでくれました。
「あなたに任せて良かったわ、アイリス。あなたはクレイドルに来るのが早かったからか、みんなのお姉さんだったものね」
「ええ、だから大丈夫よママ。ルビーとはわたしが仲良くするから」
「わたしに恋をしてくれそう?」
「どうかしら。だってルビーは特別だもの」
ほんとうはそんな事にはならないわ、と言い切れるだけの自信があったのですが、わたしはママにそれを隠しました。だってルビーはママなんて見ないから。ルビーの目は、いつだってわたしを見ています。わたしはそれがとても誇らしくて、ルビーの目が他に向く事が無い事にだって自信がありました。だけどみんなのママであるママにそれを教えるのはいじわるだと、わたしはそう思ったのです。
「ルビーはとっても素敵よ。色んな事を知っているし、それを教えるのがとても上手いの。それに笑った顔がとても可愛くて」
「アイリス」
ママのガラス玉のような瞳がわたしを映します。わたしは、それで、違う、自分の気持ちを知りました。
本当はママにルビーを好きになってほしくなかった。ルビーはわたしだけの少女であってほしかった。だからママにルビーを見て欲しくなかったし、だけどルビーの事を自慢したかった、わたしはそれだけでした。
「何?ママ」
「……大きくなったわね、アイリス」
ママの手がこわばるわたしの頬を撫でました。その手がひんやりしていて、ああママは少女ではないのだと――人間では無いのだと、そういう事を、思い出しました。
そして、ああ、そうか、わたしは思い出しました。ここはクレイドル。神さまの管理する少女の揺り籠。ここでの夢はここだけのもの。わたしたちは少女で無くなれば、ここでの事を綺麗に忘れてしまうのです。
そんなのは嫌。わたしはクレイドルに来てはじめてそう思いました。ルビーとお別れなんてしたくない。怖い、もしかしたら生まれて初めて、そう思いました。
「ママ、わたし、ルビーの事忘れたくないわ」
「そう……」
ママの手が頬から目に動きます。私の瞼を撫でたママは、小さな声で言いました。残念だわ。
「あなたもう、少女じゃないのね」
ママが――神さまが、わたしを少女でなくしてしまう。わたしは急いで神さまを突き飛ばしました。そしてそのまま走り出しました。ここにいたらわたしは夢から醒めてしまう。それだけは絶対に嫌でした。わたしはルビーの側にいたかった。ルビーともっと一緒にいたくて、ずっとずっと一緒にいたくて、少女のままでいたかったのです。
「待ちなさい!」
神さまの声が聞こえて、少女たちがわたしを追いかけました。わたしは逃げるようにして走り、ただただ心の中でルビーを呼び続けていました。

 

 

 

04

その姿を見つけた時、わたしはとうとう泣きだしてしまいました。隠れる事も忘れていちもくさんに駆け寄るわたしに、ルビーも、他の少女たちも気付いたようでした。
「ルビー!」
サファイア!?」
けれどそれよりもルビーの元に行きたくてわたしは足を動かしました。飛び着くようにルビーに抱き着くと、ルビーは私を抱きしめ返してくれました。けれどそれも一瞬、他の少女たちから逃げるようにわたしはルビーに手を引かれ、二人でずっとずっと走りました。ようやくルビーが足を止めた頃にはわたしはもうへとへとで、その場に座り込んでしまいました。ルビーが周囲を警戒しながら、サファイア、わたしを青い顔で見下ろしました。
「あなた何をしてるの、みんなあなたを探してるわ。もう少女じゃないって――」
「やめて!」
わたしは遮るように叫び、そしてルビーの手を縋るように握りました。ルビーの手はいつも通りに温かくて、けれどこの体温すら、わたしは忘れてしまうのです。
「ねえルビー、あなた真っ赤な女の子よ。他の誰でもないわ。あなただけ、あなただけが真っ赤なの。わたしそんなあなたの事が好きよ。……だけどわたし少女じゃなくなったらあなたを忘れてしまう」
わたしはもう少女ではありません。神さまがそう言いました。ここはここはクレイドルです。神さまの管理する少女の揺り籠、わたしたちはみんなで夢を見ているだけで、夢から醒めれば少女の思い出を全てここに置いて、大人にならなくてはなりません。わたしにはそれが耐えがたい。いつかきっと大人になる、そんな事ずっとわかっていました。いつかママと会えなくなるのが寂しいわ、そう言った日だってあります。けれどこんなに、引き裂かれる程に辛いものだなんて思ってなかった。わたしはルビーを忘れたくない。ルビーの全部を憶えていたい。ルビーの隣に、あり続けたい。それだけなのに、それは絶対に叶わないのです。
「ルビー、わたし夢から醒めたくない。あなたとずっと一緒にいたいのに……!」
サファイア
ルビーがぺたんと座り込んで、わたしの頬に手を添えました。ルビーの手に導かれて、ほんの少し上を向いた顔、その唇に、ルビーの唇が重なりました。キスは一瞬のようで永遠のようで、けれど多分、二秒くらい。わたしたちには、もうそんな時間しか残されて無かったのです。
「ルビー……?」
「……泣かないで。笑ってるあなたが好きよ」
ルビーはその指でわたしの流した涙を拭いました。わたしたちは、約束なんてできませんでした。忘れないとも、また会おうとも言えないまま。
「あなたみんなのうちのひとりなんかじゃない、私にとってはたった一人の」
伸ばした手は、光を透かしていました。
眩しくて目を瞬かせていたら、かつん、ヒールが床を鳴らす音がして、柔らかい印象の女の人がこちらを見下ろしていた。
「――おはようございます、気分はどうですか?」
「わかりません……私、なんで泣いてるかな」
女の人は白衣のポケットからハンカチを取り出して私に貸してくれて、私が泣き止む頃にはお母さんがベッドに来てくれた。ちょっと寝ているうちにお母さんは少し年をとったみたいで、あなた七年もここで眠っていたのよ、とほんの少し涙混じりに私を抱きしめた。
私はお母さんが持って来てくれた服に着替えて手続きを済ませて、その日の内にクレイドルを出る事になった。クレイドルの門を出て、タクシーに乗り込む時。ほんの少し、袖が引かれるような、そんな感覚がして立ち止まった。どうしたの、ママに聞かれて、わたしは答えに困る。私は夢を見ていた。それは知っている。地球の女の子はそうして少女の時間を過ごすのだ。だけど私は、どんな夢を見ていたのだろう。幸せな夢は、見れたのだろうか。
「お母さん、私、クレイドルに大切なものを忘れて来たのかもしれない……」
「……少女はみんなそうなのよ」
お母さんはそう言って笑って、行きましょう、私を促した。私は結局タクシーに乗って、振り返らずに八年ぶりに家に帰った。だけどずっと、クレイドルの事が気になっていて。私は女にしては珍しく学校に入り直して大学まで出て、医師免許を取るとクレイドルに医者として、今度は少女たちを管理する側としてその施設に戻った。
今日はその初勤務日で、かつん、あの日聞いたようなヒールの音を響かせて私は歩いていた。クレイドルには女の職員しかいない。少女を預かるのだから当然だ。地球の人口は年々減っているけれど、それでも少女の眠るクレイドルはとても広い。少女の数も相当の数だった。それに合わせて、クレイドルには職員もそれなりの数がいる。同僚の顔と名前なんて十人憶えたら偉いわよ、と先輩には言われたけれど、たとえきりが無いのだとしてもできるだけ憶えていきたいと思っていた。
ずっと何かを探している気分だった。まるで自分が欠けてしまっているようで、その欠片を探しているような、そんな感覚がずっとある。私はだから、知らないものを知る事が好きだった。私を一時でも埋めてくれるようだったから。だけど何も、誰も、私の空虚を埋めてはくれなかった。私には何かが足りない。それがわかってるのに、何が足りないのかはわからない。ずっとずっと、そんな調子で。だからなのか、私はいつだって寂しかった。誰かに隣にいてほしい。そう思い続けている。いるだけで、誰にも隣には来てほしくない、そうも思っていた。
私の隣は、たった一人、あの子だけの。――だけどあの子って誰?そういう風に、私の思考は止まる。鈍い頭痛を伴って、あの涙にまみれた朝を思い出す。私はどうして泣いていたのだろう。何を――誰を求めているんだろう。いつになったら、諦められるのか。そんな事を考えながら、歩いている時だった。
目に入ったのは揺れる赤だった。長い髪を結う赤いリボン。私は赤い色がなんでか好きで、いつだって目で追ってしまう。思わず伸ばした手が、誰かの髪に触れた。
「あ」
「え?」
通り過ぎようとしていた、同僚なのだろう、女性が立ち止まる。ナースなのは服装でわかった。初対面の人に無礼な事をしてしまった、私は慌てて手を引っ込めた。
「その、ごめんなさい。ええと、素敵な色ね」
「ありがとう。昔からなんでか好きなの……嫌だ大丈夫?あなた泣いてるわ」
え、私は驚いて目元に手をやった。なんでだか、まったくわからないのに、あの日と同じように涙が零れて仕方が無かった。
「ごめんなさい、わからないけど……わからないけど、なんだかとても、嬉しい気がして」
声を出す事もままならない程、私の涙は溢れていった。そんな私を抱き寄せて、そのナースは泣かないで、と私の涙を指で拭ってくれた。
「私もなんだか、あなたには笑っていてほしいわ。ねえ自己紹介しましょう、私赤城桃香っていうの。あなたは?」
「……南佐波」
綺麗な名前ね、そのナースは――桃香は言って、これからよろしく、と笑ってくれた。それは花が綻ぶような、そうでなければ星の零れるような、そんな綺麗な笑顔だった。