ミルクティーの雨

創作物倉庫 兼 身内向けのブログ

好きについて

たまにぱってわかんなくなってしまうんだけど、私って何が好きなんだろう、と、なってしまった。


音楽とか、本とか漫画とか、アニメとか、アイドルとか、役者さんとか、舞台とか、小説書くこととか、星とか、庭いじりとか、花とか、犬とか、青色とか、化粧とか、服とか、色々連想ゲームみたいに思い出すけど、それだけで。

何が、どうして好きなんだっけ、どこが好きなんだっけ、と。


私は年齢の割に社会人としての経験が浅いし、そのくせ言葉に敏感すぎてすぐ傷つくし、勉強しようとすると頭がパンクするし、なんにもできなくて、なんにも持ってない。笑うのも下手、会話するのも下手、言葉を選ぶのも、下手。


好きだった自信があった事を否定されて、信頼を失って、好きだったひとを嫌いになって、傷ついて、失敗して。


言葉が大好きだったと思う。

でもすごく冷たかった。怖かった。金物のつめたさだった。


誰にどれくらい配慮して発言したらいいんだかよくわからなくなってきてしまった。私が恵まれてて愛されてて大切にして貰えることは多分いけないことで、いけないというか、誰かを刺すんだなって。

思ったら、好きとか、嬉しいとか、そういうの、なんにも言えなくなってしまった。


なんにもたのしくない。本が読めない。音楽が耳栓になった。小説なんて書けない、私の文章は不快になるみたいだから。


好き、を、癒してくれるものって、なんだっけなあ。


はらと弱音を吐いたら慰めてくれるひとがいて、ああ私はずるいって。私なんてって。そんな価値ないのに。

優しくして貰える資格なんてない。ずるい。きらい。


はやくはやくはやくせめて家族にお詫びをしたい。かけてもらったお金とか、私にかかるお金とか、稼いで、そうしたらって。死にたくないけど。


まとまらない〜寝る努力をしよう、がんばってね。


好きを大事にしてね。

化粧とかの話

最近の趣味は花の世話と化粧です。花の話はまたそのうちしたいな~。

という事で化粧の話。

 

 

 

・下地

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マジョマジョの下地が好き……。塗るマスクの方だけでも大分いい感じなんだけど、とにかく肌を白くしたいひとなのでそこに隣のやつを塗るときもある。気を抜いてる時は塗るマスクだけで下地を済ます。

 

 

 

・ファンデーション

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リキッドはメイベリンの、あとはフォロワーのコスメ記事を見て買ったキャンメイクのファンデーションと、あとはマジョマジョのフェイスパウダー。マジョマジョのフェイスパウダーはとにかく白くなるので好き。確か高校生とかの頃からリピし続けてるやつ。

使う時としてはメイベリンのリキッドが気が抜けてる時、キャンメイクのやつがちょっと化粧したい時、マジョマジョのやつがガッツリ趣味の化粧をしてる時、という感じ。

フェイスパウダーはキャンメイクのマシュマロフィニッシュパウダーも持ってる、ポーチに入ってる。写真は撮り忘れた。

 

 

 

・コンシーラー

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百万年前から使ってる。多分コンビニかなんかで買ったやつ。いつ使い切るのだろうか。

 

 

 

・マスカラ

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左からマスカラ下地、いつもの、おうち用、というような。一番左のやつはよく伸びるんだけどいつから使ってるのかわからない……。

 

 

 

・アイライン

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KATEのとちふれのやつ。ちふれのはペンシルタイプで、どっちのが書きやすいかな~と思って買ったんだけど私はペンシルタイプはあんまりうまくない、というか、まずアイライン書くのが上手くないので練習中である。

 

 

 

・アイブロウ

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ひゃくまんねんまえから使ってるやつ。蓋が取れたのでマステでくっつけてる。キャンメイクのやつで、一番下のやつはノーズシャドウなんだけどそれは全く使っていない。

 

 

 

・アイシャドウ

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AUBEのはピンクのとオレンジのやつ、一番右の大きいのは姉に誕生日プレゼントに貰ったジルスチュアートのピンクのやつ。キャンメイクのやつもピンクので、KATEのはローズ色。強くなりたい時はこれ一択。キャンメイクのやつは紫も使ってる。私はブルべサマーなので青とか紫も似合うのです。という事で青いのも持ってる。あとキャンメイクのキラキラするやつ。涙袋用。

 

 

 

・ハイライトとかシューティングとか

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KATEのパレット万能すぎて愛した。ピンクのやつはアイシャドウに使ったり、白をハイライトに使い、ブラウンのをノーズシャドウに使ったり。あとグリッター入ってるやつがキラキラしててかわいくて涙袋に置いたりとかもしている。キャンメイクのチューブのやつはちょっと前に買ったやつなんだけどこれもキラキラして良い。顔キラキラさせるの大好き。ハイライトとシューティングもキャンメイク。使い勝手がいい。

 

 

 

・チーク

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キャンメイクキャンメイクセザンヌキャンメイクのはピンクのやつとオレンジ、どっちもキラキラしている。セザンヌのはローズ色。KATEのアイシャドウと一緒に強くなりたい時に使う。

 

 

 

・リップ

 

大好き過ぎてめっちゃ持ってる。

 

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これはリップクリーム。ジョンマスターオーガニックのやつは母がくれるやつ。化粧する前につける。ニベアのは色付きで、いつもはポーチの中にいる。

 

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口紅系①。メイベリンのは左がピンクで右が赤。赤い方は折れかけててひやひや使ってる。その隣はアフタヌーンティーで買ったリップティントで良い匂いがする。横のオペラはもうそろそろ寿命のレッド系、パレットはKATEでルージュでちょっとピンクっぽい赤。キャンメイクのやつはチークにも使えるけどもっぱら口紅に使っている。血色感って感じで好き。

 

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口紅系②。全部ちふれ。左からピンク、オレンジ、ローズ。使いたい時に使う。ピンク、いったいいつから使ってるのか。でもちふれの口紅好きです。

 

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口紅系③、お気に入りたち。一番左は姉が誕生日プレゼントにくれたジルスチュアートグロス。デートの時とかにつける。その隣はラデュレのルージュ。デートの時とかにつける。でオペラのクリアライラック。紫で、だから私はそういう色が似合う。その隣のブルー系のグロスは透明っぽくて、一個ずつでもかわいいけど併せて使うと良い感じ。最近はその二本ばっかり使っている。透明感出て綺麗なのと単純に寒色メイクにはまっているので……。

 

 

 

・その他

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「プルプルクリーム」。乾燥が気になる所に塗ったり、あと髪にぬるとつやつやになる。これは二個目で、何故か三個目もある。一個目から全部貰い物。

 

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オハナマハロの全身使える保湿クリーム。すずらんの香りが素敵。あと最近の推しが白鳥なので明確なるパケ買い。

 

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ヘアケア用品。&honeyのヘアオイルが良い感じです。シャンプーとトリートメントも買ってしまった。サラサラになるかな~。ロレッタのやつは十日位使ってるとサラッサラになる、ちなみに蓋を開けるときに力を入れ過ぎたのでキャップが取れる。

 

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化粧水。迷走している。今はちふれ。とにかく美白にこだわりたいけど何かいいものはないのだろうか……。

 

 

 

 

とりあえずはこんな感じ!一日のいつでもいいから着替えて化粧してっていうのをノルマにしているのだけどなかなか達成できない日もある、でも化粧すると気分が上がるので気合い入れなくても毎日したいな~。

最近の書いてるものとか、書きたいものとか

最近はもっぱら、頑張ってるフォロワーのために毎日にょたゆりを送り付ける、という生活をしていて、同時にはまってるカプの二次創作もちまちま書いていて、それもにょたが多かったりして、つまり二次創作で女の子ばっかり書いてますね。はい。

読みたいひとは私に直接聞いてください~倉庫アカウント教えるので。もうはやくpixivから撤退したい。疲れる。

 

なんかなあ、と思うのですが、家族が幸せ、それを書くのが「誰かを不幸にする」、それがわかってしまって、「結婚は幸せの絶頂ではない」と、そういうのも知ってしまって、「好きが突然切れたら憎しみに代わる」みたいな事まで知ってしまって。

正直、小説なんて書きたくない。頑張ってるフォロワーのために毎日書いてるし、評価がほしくて毎日書こうと頑張ってるけど、すごく疲れる。

 

本格的に、と思うのは、舞台脚本を書きたい。

 

女性だけの劇団を作ったりしてみたい。いつかめいめいに私の本でやってもらいたい。……安西君に、私の一人芝居をしてほしい。

希望だけはでっかくね。

 

一人芝居の方は、プロットのようなものがようやくできて、あとはこれを文章化するだけ。でも今は、それよりも頑張ってるあの子のために全力でありたい。だから、6月から本気で書く。

 

あとは百合小説を書きたいなって。スール百合とか、騎士姫百合とか、人外×人間百合とか、そういうの。

一個前のクレイドル、は。舞台の脚本に化けないかな~なんて。思ったり。

 

 

お金を溜めて、シナリオスクールに行ってみたい。脚本のスキルを学びたい。劇団とか入った方がいいのかな、それなら断然静岡の女性ばかりの劇団入りたいんだけども……。一回で良いから観に行きたいなあ。お金貯めなきゃ。

 

 

ということで、明日はテレビ通話で面談です。なんか先に進むといいな。

おやすみなさい。

 

クレイドル

01

ある日世界に神さまが降り立ってこう言いました。
「少女には夢を与えましょう!」
その日から、地球の少女は夢を見る生き物になったのです。
それは西暦三〇〇〇年の出来事でした。宇宙に発見された地球とよく似た環境の、地球よりずっと生活に適した惑星への移住が本格的に始まってからちょうど十二年の時が過ぎた頃でした。外星――外国と同じように地球以外の惑星の事をわたしたち地球人はそう呼びます――にも少女という生き物が生まれる頃でした。
神さまの言う少女というものは定義が曖昧で、ですが女として生まれたからには必ず少女になります。時期は人それぞれですが、少女になると女の子はみんなぱたぱたと眠りに落ちて、そして『クレイドル』に運ばれます。そしてみんなでみんなの夢を見るのです。
クレイドルというのは神さまの管理する少女の寝床です。そこには大人の女性が少女たちの眠りを守るために働いていると聞きますが、夢の中の少女たちはそれを知りません。どころかここに来るまでの事は何一つ、自分が少女であるという事以外はなにもかもを忘れてしまいます。そして少女でなくなる時が来たら、クレイドルで過ごした夢の事も忘れてしまうのです。それが少女という生き物なのです。
わたしという少女はどうやら十一歳になる頃少女として神さまに見初められて、まっさらになってこのクレイドルに来ました。
クレイドルでの事は全部ママが、そう、わたしたち少女はみんな神さまの事をママと呼びます。ママはとっても美人さんで、わたしたちをとても愛してくれています。そのママがクレイドルでの事は全て良いようにしてくれます。かわいいワンピースみたいなパジャマをくれるし、ふわふわの専用のベッドも(夢の中なのに)あります。わたしたちはおいしいお菓子といい匂いの紅茶でお茶会をしたり、みんなでママの読んでくれる本の内容に耳を傾けたり、お花畑で花冠を作って遊んだり。それは全部夢の中での事ですが、ママの作ってくれた優しい少女の国でママに愛されて、そして応えるようにママに恋をして少女期を過ごし、そして大人になるのが、地球の女の子の普通なのです。
けれど普通じゃない子もいます。ママはその子の事をすごく気にかけていて、わたしたちはなんだかそれが面白くありません。
「わたしに恋をしてくれない少女なんて初めてだわ。それに誰とも仲良くしてくれないの。あの子は少女になるのも遅かったし、心配だわ」
ママは困ったように溜息を吐きました。わたしはその時ママの膝を枕に寝転んでいて、ママの溜息が目の前にぽとりと落ちて来た気がしました。だからわたしはママの憂いを拭ってあげたくなって、任せてママ、そう言ってしまったのです。そうすると、ママは本当?とわたしに目を剥けてくれました。それがとっても嬉しくて、わたしは勿論よと胸を張りました。ママはわたしを、ぎゅっと抱きしめてくれました。
「ありがとう、あなたはママの天使さまよ!」
それはクレイドルの少女みんなが言って貰える愛の言葉でした。あの子にもこれを聞かせてあげよう、わたしは心に決めて、その子の元にビスケットと紅茶のポットの入ったバスケットを持って行ってみました。
その子は一人で本を読んでいました。クッションも置かれていない木のベンチに腰掛けて、静かに小さな本のページを捲っています。その本は綺麗な挿絵なんて無くて、表紙もうすっぺらい紙一枚に文字が書かれているだけ、お姫様も出て来ないのだと、それは後から聞いてびっくりした話だったけれど、その時のわたしはなんてつまらない本を読んでいるのだろうと本当にびっくりしてしまったのです。
「ねえ、その本面白い?」
「あなた面白く無い本を読むの?」
向けられた言葉にわたしはきょとんとしてしまいました。この子何を言ってるのかな、そんな事を思います。本当に言っている事がわからなくて、いいえ、わたしは首を横に振りました。
「わたし本は読まないわ。ママが読んでくれるのを聞くのが好きなだけだもん」
「『ママ』」
その子は口端を歪めて笑いました。そんな笑い方をする子はここにはいないので、わたしはこの子は本当に変わっているのだなあと思うばかり、けれどそんな事よりも、ママの不安を理解出来た事の方が嬉しくて、わたしはこの子を『みんなと一緒』に連れて行く決意をしたのでした。
「あなたたちってそればかりね。私はあんなやつの読み聞かせを聞くような子どもじゃないわ」
「どうしてママの事あんなやつだなんて言うの?ねえ、本なんか読んでないで、みんなで一緒にお茶会しましょ?あなたずっと一人きりのまま少女を過ごすなんて、そんなのさみしすぎるわ」
「勝手に決めないで」
ぱたんと本を閉じたその子はわたしを睨みました。誰かに睨まれるのなんて――少女になってからは――初めてで、わたしはまたとてもびっくりしてしまったのでした。
「私は私が好きだから本を読んでるの。あなたたちとお茶会をしたり、あの女神の声を聞いてうっとりするよりも、一人で本を読んでる方がずっとずっと楽しいわ」
「……そうなの?」
わたしが首を傾げると、その子も首を傾げました。
「そうなのって、何?」
「わたし、あなたがものすごくシャイな子なのかと思ってた……」
それに答えたわたしの言葉に、その子はとてもとても、本当にとても深い溜息を吐き出しました。それからわたしをまた睨んで、失礼な妄想をしないで頂戴、とわたしに低い声で言ったのでした。
「私は私の好きなように過ごしてるだけよ」
「そうなのね。ごめんなさい」
「……わかったのならどこかに行ってくれない?一人でいるのが好きなの」
「うん。でもわたし、ママにあなたの事任せてって言っちゃったから」
けれどわたしも引く訳にはいきません。少女の一人として、あたりまえにママのためになる事がしたかったのです。
「だから、わたしも本を読むわ。ねえ、お姫さまが出てくるお話は無い?」
少女ってこれだから。その子はやっぱりわたしを睨んだけれど、わたしのために童話を一冊貸してくれたのでした。

 

 

 
02

あの日からわたしたちは一緒に本を読むようになりました。自分で本を読むのはやっぱり退屈だったけれど、それでもわたしはママのためだと思って我慢して必死で文字を追いました。その子はけれど、本を読むのも楽しそうには見えませんでした。いつも静かにページを捲るだけで、にこりとする事も、涙を零す事もありませんでした。だからわたしは気になって、ねえ本当に面白いの、聞いたのですが、あなたにはわからないわ、と言われてしまいました。
「わからないなんて、さみしい事を言わないで」
「別にさみしい事なんかじゃないわ。価値観なんて人それぞれよ」
「だけどあなた、本当にたったひとりだわ……さみしいわよ」
わたしは少し泣きたい気持ちになりました。その子と一緒にいればいるほど、その子が一人きりである事を痛いほどに知ってしまったのです。本はおしゃべりしてくれないし、一緒にお菓子を食べてもくれないし、頭を撫でてくれる事もありません。少なくとも、その時のわたしはそう思ったのです。
その子だってクレイドルの少女の仲間なのだから、みんなと一緒におしゃべりをして、お菓子を食べて、ママに頭を撫でて貰ってほしい。わたしはその子に対して、そんな事を考えていました。だからわたしは、ねえ、と本に栞を挟んでその子に話しかけました。ずっと考えていた事を、とうとう口にする決心がついたのです。
「あなた誰にも名前を呼ばれないじゃない?わたしが考えてあげる!」
「いらないわ」
わたしはなんでかとても傷ついてしまいました。本当に泣いちゃいたい、それを必死で堪えながら、そんな事言わないで、そう言って用意していた名前を教えました。
「ねえ、ルビーってどうかしら。わたし赤い色が好きなのよ」
「勝手につけないでくれる?」
「ルビー!ほら返事をして」
「嫌よ」
そこまで来るとわたしは本当に泣きだしてしまいそうで、唇を噛んでそれを耐えました。そうして俯いていると、その子――ルビーは、ルビーも栞を挟んで本を閉じて、小さく息を吐き出しました。
「私がルビーならあなたはサファイアね」
「どういう事?」
「ルビーじゃないって事よ」
「……どういう事?それって素敵な意味を持つ名前?」
クレイドルでは、みんな思い思いに友達の事を呼びます。ママにも、名前をつけて貰えます。わたしはアイリスとママに呼ばれていましたし、友達には優子とか、パピヨンとか、お姉ちゃんとか、他にもたくさんの名前がありました。クレイドルの少女は、生まれた名前を持ちません。だからそうやって、誰かに自由に呼んで貰う事が出来るのです。クレイドルはとても自由で、そして愛に満ちた所です。それはママがそう望んでいるからで、わたしたちはみんな、ママの願いを叶えてあげたくて一生懸命になります。それがクレイドルの少女です。わたしも、ルビーも。クレイドルの少女でした。わたしたちは、愛情を、素敵な意味を込めて友達を呼びます。クレイドルの少女は、そうだと決まっているのです。
だからきっと、ルビーもわたしに素敵な意味と愛情を込めてくれたのだと、わたしは思いました。けれどルビーはまた、口端を歪めて笑うだけ、わたしに愛なんて、ひとかけらだってくれないのでした。
「あなたって本当に少女ね。それ以外の何者でもないわ」
「どういう事?」
「あなたってそればかりね。……いいえ、あなただけじゃないわ。みんなそう。だから私にとって、あなたはただの『みんな』だっていう話よ」
ルビーは閉じた本を持ってベンチから立ち上がりました。私もう行くわ、ルビーは言って、それから座ったままの私を振り返りました。ルビーはいつも、私を睨んでいました。
「私、あなたの事が嫌いだわ。もしかしたら女神以上に。だってなんでもないんだもの。気持ち悪い」
「……わたしはルビーの事が好きよ?」
「だから何だっていうの?」
ルビーの言葉は棘が生えるようで、私はなんだか耳が、そして体の中が、ちくちくと痛むのを感じました。ルビーはそれだけ言うと、すぐに立ち去ろうと足を進めました。私は慌てて後を追って、待って、その手を掴みました。
「ねえ、ママの所に行きましょう。そうしたら、きっとママの事好きになるわ。それにみんなとお友達になれる。みんなに紹介するわ、あなたがルビーだって」
わたしの話を、ルビーはとてもつまらなそうに聞きました。その表情を見て、わたしは何故か、ああルビーは本を読むのが本当に好きで面白く思っているのだ、という事を理解しました。ルビーは、そして本当に、わたしの事が嫌いなのだという事も、わかってしまったのでした。
「私ね、ママって言葉を使う子が嫌い。だけど私、母さんの事をママなんて呼ぶ女の子だったかもしれない。それがすごく怖いわ」
「ルビー?」
「……あなたにはわからないんでしょうけど」
ルビーはわたしの手を解いて、あの、口端を歪める笑い方をして、私を呼びました。サファイア。わたしはそれがとても嬉しくて悲しくて、ルビー、私が呼ぶ声は、震えてしまっていました。
「ねえ、大好きなママに何かもわからない恋をしてるサファイア。私あなたの好きが嫌いだわ」
いやよルビー、嫌いになんてならないで。それが言いたかったのに、どうしても言えなくて、わたしはただ、遠ざかっていくルビーの背中に伸ばせない手でスカートを握っていたのでした。

 

 

 

03

「ルビー」
その日もルビーはベンチで本を読んでいました。わたしがいてもいなくても、ルビーはいつも通りに本を読んでいました。わたしの声に顔を上げてはくれたけれど、心底嫌そうな顔をしているのが、わたしにもわかりました。
「あなたまだ来るのね」
「……サファイアって呼ばないの?」
「呼んでほしいの?」
ルビーは口端を歪めて笑いました。思えばこの子がきちんと笑った顔なんて見た事が無くて、わたしはそれがとても、悲しく思えたのでした。
「あなたがくれた名前だもの」
「他の子が沢山名前をくれるでしょう」
「だけどあなたのくれた名前がいちばん綺麗だわ」
そう聞こえたのよ、わたしが言えば、ルビーは呆れたように、それでも本を閉じてわたしを見てくれました。わたしは少し迷って、ルビーの隣に座りました。いつもよりほんの少し近くに座ったのに、ルビーは何も言いませんでした。ルビーは、サファイアはね、と、いくらかかみ砕いたかのように、いつもより柔らかく、わたしに教えてくれました。
サファイアっていう石はね、コランダムっていう石につけられる名前よ。赤はルビー、それ以外は全部サファイア。だからあなたはサファイアなの」
私じゃない他の全部よ。ルビーはそう言ったけれど、わたしには別な風に聞こえました。
「わたしとルビーは一緒なの?」
「……一緒にしないで」
コランダムという石が、どんな石なのか、わたしは知りません。けれどルビーと一緒だった、それがすごく嬉しかったのです。ルビーは迷惑そうに顔を歪めて、けれど、すぐにいいえ、と言葉を翻しました。その横顔が悔しそうで、酷く機嫌が悪そうで、そんな横顔を、わたしはクレイドルで初めて見ました。多分、きっと、だから、わたしはルビーから目が離せませんでした。
「でもそうね。私はルビーでありたいけれど、ここにいるっていう事は。結局私もサファイアで――少女でしかないんでしょうね」
「ルビー……」
俯いた横顔はどこか悲しそうで、わたしは無意識にルビーの手に触れていました。ルビーの手はとてもあたたかくて、涙を流すまいと堪える瞳はきらきらと輝いていました。わたしはその時、はじめて自分の心でルビーの友達になりたいと思いました。いいえ、友達なんかじゃない、ルビーの一番になりたいって、そう思ったのです。
「ねえ、本を読みましょう。わたしあなたが好きな物語を読みたい」
「私、お姫さまが出てくる話は好きじゃないの」
「いなくてもいいわ」
わたしの言葉に、ルビーはきょとんとした顔をしました。初めて見るルビーの顔に、わたしはなんだか嬉しくなって、触れていた手を握ってしまいました。だけどルビーは解かなかった。わたしはルビーの手を握りしめて、ルビー、名前を呼んで、その珍しい顔を見つめました。
「言ったでしょう。あなたの好きな物語が読みたいの。……あなたの事を知りたいの」
それは自然と出た言葉で、わたしの願いでした。ルビーの事をもっと知りたい。もっと近くに行きたい。そう思ったのです。
ルビーは視線をさ迷わせて、それからたくさん考えて、ようやく小さな声でいいわ、と言ってくれました。
「つまらないって、言わないって約束するのなら、いいわ」
「もちろん!」
わたしが約束すると、ルビーは本を貸してくれました。お姫さまも王子さまも魔法使いも出て来ない、恋なんて探す事も出来ない、離別の物語でした。けれどとても美しい、そう思わせる物語でした。わたしが長い時間をかけてようやく本を読み終わるまで、ルビーは私の隣で待っていてくれました。本を閉じたわたしに、ルビーはどうだった、と尋ねて来ました。わたしは笑って答えました。
「ありがとうルビー、素敵なお話ね」
するとルビーも、初めてわたしに、柔らかい笑顔を向けてくれました。
「……ありがとう、サファイア
それはまさしく花が綻ぶような、そうでなければ星の零れるような、そんな綺麗な笑顔でした。
それからわたしとルビーはいつも一緒に本を読むようになりました。二人別々の本を読む事がほとんどで、けれどそれが全く苦ではありませんでしたし、寂しいとも思いませんでした。だって別々の本を読んでいたって、ルビーはきちんと隣にいて、わたしたちは本を読み終われば感想を言い合って、その本を互いに薦め合うのです。とても楽しい毎日はあっという間に過ぎて、わたしはそういえばママにルビーの事は大丈夫だと言うのをすっかり忘れていた事を、随分経ってようやく思い出しました。
慌ててママの元へ行って、ルビーは大丈夫よ、とても素敵な少女なのよ、そんな事を伝えると、ママは穏やかに微笑んでくれました。
「あなたに任せて良かったわ、アイリス。あなたはクレイドルに来るのが早かったからか、みんなのお姉さんだったものね」
「ええ、だから大丈夫よママ。ルビーとはわたしが仲良くするから」
「わたしに恋をしてくれそう?」
「どうかしら。だってルビーは特別だもの」
ほんとうはそんな事にはならないわ、と言い切れるだけの自信があったのですが、わたしはママにそれを隠しました。だってルビーはママなんて見ないから。ルビーの目は、いつだってわたしを見ています。わたしはそれがとても誇らしくて、ルビーの目が他に向く事が無い事にだって自信がありました。だけどみんなのママであるママにそれを教えるのはいじわるだと、わたしはそう思ったのです。
「ルビーはとっても素敵よ。色んな事を知っているし、それを教えるのがとても上手いの。それに笑った顔がとても可愛くて」
「アイリス」
ママのガラス玉のような瞳がわたしを映します。わたしは、それで、違う、自分の気持ちを知りました。
本当はママにルビーを好きになってほしくなかった。ルビーはわたしだけの少女であってほしかった。だからママにルビーを見て欲しくなかったし、だけどルビーの事を自慢したかった、わたしはそれだけでした。
「何?ママ」
「……大きくなったわね、アイリス」
ママの手がこわばるわたしの頬を撫でました。その手がひんやりしていて、ああママは少女ではないのだと――人間では無いのだと、そういう事を、思い出しました。
そして、ああ、そうか、わたしは思い出しました。ここはクレイドル。神さまの管理する少女の揺り籠。ここでの夢はここだけのもの。わたしたちは少女で無くなれば、ここでの事を綺麗に忘れてしまうのです。
そんなのは嫌。わたしはクレイドルに来てはじめてそう思いました。ルビーとお別れなんてしたくない。怖い、もしかしたら生まれて初めて、そう思いました。
「ママ、わたし、ルビーの事忘れたくないわ」
「そう……」
ママの手が頬から目に動きます。私の瞼を撫でたママは、小さな声で言いました。残念だわ。
「あなたもう、少女じゃないのね」
ママが――神さまが、わたしを少女でなくしてしまう。わたしは急いで神さまを突き飛ばしました。そしてそのまま走り出しました。ここにいたらわたしは夢から醒めてしまう。それだけは絶対に嫌でした。わたしはルビーの側にいたかった。ルビーともっと一緒にいたくて、ずっとずっと一緒にいたくて、少女のままでいたかったのです。
「待ちなさい!」
神さまの声が聞こえて、少女たちがわたしを追いかけました。わたしは逃げるようにして走り、ただただ心の中でルビーを呼び続けていました。

 

 

 

04

その姿を見つけた時、わたしはとうとう泣きだしてしまいました。隠れる事も忘れていちもくさんに駆け寄るわたしに、ルビーも、他の少女たちも気付いたようでした。
「ルビー!」
サファイア!?」
けれどそれよりもルビーの元に行きたくてわたしは足を動かしました。飛び着くようにルビーに抱き着くと、ルビーは私を抱きしめ返してくれました。けれどそれも一瞬、他の少女たちから逃げるようにわたしはルビーに手を引かれ、二人でずっとずっと走りました。ようやくルビーが足を止めた頃にはわたしはもうへとへとで、その場に座り込んでしまいました。ルビーが周囲を警戒しながら、サファイア、わたしを青い顔で見下ろしました。
「あなた何をしてるの、みんなあなたを探してるわ。もう少女じゃないって――」
「やめて!」
わたしは遮るように叫び、そしてルビーの手を縋るように握りました。ルビーの手はいつも通りに温かくて、けれどこの体温すら、わたしは忘れてしまうのです。
「ねえルビー、あなた真っ赤な女の子よ。他の誰でもないわ。あなただけ、あなただけが真っ赤なの。わたしそんなあなたの事が好きよ。……だけどわたし少女じゃなくなったらあなたを忘れてしまう」
わたしはもう少女ではありません。神さまがそう言いました。ここはここはクレイドルです。神さまの管理する少女の揺り籠、わたしたちはみんなで夢を見ているだけで、夢から醒めれば少女の思い出を全てここに置いて、大人にならなくてはなりません。わたしにはそれが耐えがたい。いつかきっと大人になる、そんな事ずっとわかっていました。いつかママと会えなくなるのが寂しいわ、そう言った日だってあります。けれどこんなに、引き裂かれる程に辛いものだなんて思ってなかった。わたしはルビーを忘れたくない。ルビーの全部を憶えていたい。ルビーの隣に、あり続けたい。それだけなのに、それは絶対に叶わないのです。
「ルビー、わたし夢から醒めたくない。あなたとずっと一緒にいたいのに……!」
サファイア
ルビーがぺたんと座り込んで、わたしの頬に手を添えました。ルビーの手に導かれて、ほんの少し上を向いた顔、その唇に、ルビーの唇が重なりました。キスは一瞬のようで永遠のようで、けれど多分、二秒くらい。わたしたちには、もうそんな時間しか残されて無かったのです。
「ルビー……?」
「……泣かないで。笑ってるあなたが好きよ」
ルビーはその指でわたしの流した涙を拭いました。わたしたちは、約束なんてできませんでした。忘れないとも、また会おうとも言えないまま。
「あなたみんなのうちのひとりなんかじゃない、私にとってはたった一人の」
伸ばした手は、光を透かしていました。
眩しくて目を瞬かせていたら、かつん、ヒールが床を鳴らす音がして、柔らかい印象の女の人がこちらを見下ろしていた。
「――おはようございます、気分はどうですか?」
「わかりません……私、なんで泣いてるかな」
女の人は白衣のポケットからハンカチを取り出して私に貸してくれて、私が泣き止む頃にはお母さんがベッドに来てくれた。ちょっと寝ているうちにお母さんは少し年をとったみたいで、あなた七年もここで眠っていたのよ、とほんの少し涙混じりに私を抱きしめた。
私はお母さんが持って来てくれた服に着替えて手続きを済ませて、その日の内にクレイドルを出る事になった。クレイドルの門を出て、タクシーに乗り込む時。ほんの少し、袖が引かれるような、そんな感覚がして立ち止まった。どうしたの、ママに聞かれて、わたしは答えに困る。私は夢を見ていた。それは知っている。地球の女の子はそうして少女の時間を過ごすのだ。だけど私は、どんな夢を見ていたのだろう。幸せな夢は、見れたのだろうか。
「お母さん、私、クレイドルに大切なものを忘れて来たのかもしれない……」
「……少女はみんなそうなのよ」
お母さんはそう言って笑って、行きましょう、私を促した。私は結局タクシーに乗って、振り返らずに八年ぶりに家に帰った。だけどずっと、クレイドルの事が気になっていて。私は女にしては珍しく学校に入り直して大学まで出て、医師免許を取るとクレイドルに医者として、今度は少女たちを管理する側としてその施設に戻った。
今日はその初勤務日で、かつん、あの日聞いたようなヒールの音を響かせて私は歩いていた。クレイドルには女の職員しかいない。少女を預かるのだから当然だ。地球の人口は年々減っているけれど、それでも少女の眠るクレイドルはとても広い。少女の数も相当の数だった。それに合わせて、クレイドルには職員もそれなりの数がいる。同僚の顔と名前なんて十人憶えたら偉いわよ、と先輩には言われたけれど、たとえきりが無いのだとしてもできるだけ憶えていきたいと思っていた。
ずっと何かを探している気分だった。まるで自分が欠けてしまっているようで、その欠片を探しているような、そんな感覚がずっとある。私はだから、知らないものを知る事が好きだった。私を一時でも埋めてくれるようだったから。だけど何も、誰も、私の空虚を埋めてはくれなかった。私には何かが足りない。それがわかってるのに、何が足りないのかはわからない。ずっとずっと、そんな調子で。だからなのか、私はいつだって寂しかった。誰かに隣にいてほしい。そう思い続けている。いるだけで、誰にも隣には来てほしくない、そうも思っていた。
私の隣は、たった一人、あの子だけの。――だけどあの子って誰?そういう風に、私の思考は止まる。鈍い頭痛を伴って、あの涙にまみれた朝を思い出す。私はどうして泣いていたのだろう。何を――誰を求めているんだろう。いつになったら、諦められるのか。そんな事を考えながら、歩いている時だった。
目に入ったのは揺れる赤だった。長い髪を結う赤いリボン。私は赤い色がなんでか好きで、いつだって目で追ってしまう。思わず伸ばした手が、誰かの髪に触れた。
「あ」
「え?」
通り過ぎようとしていた、同僚なのだろう、女性が立ち止まる。ナースなのは服装でわかった。初対面の人に無礼な事をしてしまった、私は慌てて手を引っ込めた。
「その、ごめんなさい。ええと、素敵な色ね」
「ありがとう。昔からなんでか好きなの……嫌だ大丈夫?あなた泣いてるわ」
え、私は驚いて目元に手をやった。なんでだか、まったくわからないのに、あの日と同じように涙が零れて仕方が無かった。
「ごめんなさい、わからないけど……わからないけど、なんだかとても、嬉しい気がして」
声を出す事もままならない程、私の涙は溢れていった。そんな私を抱き寄せて、そのナースは泣かないで、と私の涙を指で拭ってくれた。
「私もなんだか、あなたには笑っていてほしいわ。ねえ自己紹介しましょう、私赤城桃香っていうの。あなたは?」
「……南佐波」
綺麗な名前ね、そのナースは――桃香は言って、これからよろしく、と笑ってくれた。それは花が綻ぶような、そうでなければ星の零れるような、そんな綺麗な笑顔だった。

湖底のスピカ

町外れにある大きな森にはたくさんの魔法生物が生息しているらしい。国の偉い人たちによって聖域とされた、許可の無い人間が立ち入ることを禁止されたとても静かな森だ。
その森は高いフェンスと強固な結界魔法で守られている。だからおれは何日間も真夜中に家から抜け出して、おれみたいな子供が通れる程度のフェンスの穴が空いた場所と、その外側に張られている結界が少しだけ薄くなるタイミングを調べ上げた。
新月の夜。街が眠り、星が一番の輝きを見せる時間。隣町の小さなアーケードを通り抜けた所にある、森に隣接した薬屋の裏庭。その日、その時、その場所からならおれはあの森に入ることができるのだ。
高鳴る胸を押さえ隙を見て家から抜け出す。高いフェンスと結界魔法で守られた森の中に、初めておれは足を踏み入れた。
森の中は外の世界とそう変わらなかった。魔法生物も見かけない。夜だから隠れてるのかな、ちょっと残念。
さわさわと草が素足を撫でる。くすぐったくて気持ちいい。生命が足に触れているのがよくわかった。扉から出ると見つかりそうで窓から抜け出したから靴は履いていない。正解だったな。やっぱり外と森とじゃ違うのだ。奥に進むにつれ空気はどんどん澄んでいった。冬の朝みたいな凛とした空気。だけど冷たさは微塵もなくて、夜なのに心地良い暖かさがおれの体を包んでいる。抱きしめられてるみたいな暖かさだった。
聖域と呼ばれる森の奥、妖精たちが集まる美しい湖があるという。美しい湖は清浄な水で満たされて、どこまでも透明で、森の木々が水面に映ってうっすらと緑色がかって見えるらしい。そこには世界で最も美しいとされる神獣、天馬の群れが時折水を飲みにやって来るとか、来ないとか。
でも天馬が来るとしたらきっとこんな晩だと思う。だってとても良い夜だ。美しい光景と綺麗なもので満たされているこの空間になら、きっと絵でしか見たことの無いあの神々しい生き物が現れる。
願望を一つ抱いておれはここに来た。
世界で一番綺麗な場所で、世界で一番美しいと噂される天馬を見て、死のう。
それだけを思ってここまで来たのだ。

 

水の匂いがした。春の雨の匂いに似ている。かえって心がざわつくような、不自然な落ち着きを持った匂いだった。
見つけた、湖だ。
湖は木々に囲まれるように存在し、ぽっかりとあいた天の空間からは輝きの盛りを過ぎて控えめな主張をする星が散らばる夜空が見えた。小さくはないが大きいとは言えない広さだ。水が透けて底まで見えるっていうのは本当なのだろうか。
湖に天馬はいなかった。天馬に逃げられたらと気を張っていたのだがその必要がなくなったので、足音も消さずに湖に近づく。一歩踏み出す度に水の匂いは濃くなる。静かな場所だった。
近寄れば湖の水がびっくりするほど透けているのがわかった。本当に底が見える。きらきらした石、柔らかそうな砂の湖底、泳いでいるのは見たことの無い鮮やかな色彩の魚たち。水草が気持ちよさそうに息をする、ゴミの落ちていない湖。綺麗だ。ここになら本当に天馬が来るかもしれない。
もっと見たくなって湖をのぞき込む。随分深いんだな、と思ったところで静かだった空気が揺れた。
真珠色の髪が月のように白く輝く。
ぱしゃりと魚の尾が水面を叩いた。
新月の夜空から注ぐわずかな光源にきらめく深い湖に吸い込まれるように近寄り――それを認識した。
魚の下半身。
最初、大きな魚がいるのかと思った。大人の半身ほどはある木々の緑をうつしたような鱗、先が透けて見えそうに薄い同色の尾鰭。だけど魚の腹を拝むことはできなかった。

女性が水浴びを――否。
人魚がいた。

美しい魚の下半身には、美しい女の上半身がくっついていた。
湖色の鱗におおわれたのは彼女の、人魚の下半身だったのだ。
ぱしゃりとまた尾が水面を打つ。なめらかな動作で湖を覗き込んだまま動けないおれの目の前まで人魚は泳ぎ着き、そのまま半身を地面に乗り上げた。服を纏わない青白い肌が晒される。
「なっ、お前っなんか着ろよ変態女!」
「へんたい?へんたいって何かしら?」
ぐいと人魚は身を乗り出した。その瞳はきらきらと好奇心を纏わせて、多分ついさっきまでの自分と同じ目をしていた。
近づいた彼女の上半身はいくら自分が子供と言えど羞恥を感じず見ていられず、かと言って真っ赤な顔を隠すこともできなくて、とりあえず自分が羽織っていたぼろ布みたいなシャツを女に投げつける。
「これ着ろっ」
「なあにこれ
「服だよっ!人魚って羞恥心無えの!?話はいいから先に……」
人魚は渡したシャツを着ようともせず不思議そうに様々な角度から観察したり臭いをかいだりしている。シャツに顔を埋めながら人魚は視線だけをこちらに向けた。鱗と同じ湖色の大きな瞳だ。
「あなた名前はある?私はスピカと言うの」
人魚は一度湖に潜り、少し離れたところからまた顔を出した。
「森に入ってきた人間は私が知る中ではあなたが初めてよ。どうやってここまで来たの?湖を観察してたのはあなたでしょ?ねえ、一緒にお話ししない?退屈で仕方ないのよ」
空気が大きく震えた。抗い難い引力でも働いたかのようにその場から一歩押し出される。
こっちに来てと微笑む人魚の声はぞっとする甘さを含んでいた。魔力が宿っているのかもしれない。相手を従える言霊のようなそれはおれの頭にわんわんと反響した。こっちに来て。言葉の通りにまた足が前に出て、水面に足先がついたところで瞬間的に体に自由が戻る。ここにいちゃだめだ。そのまま体を反転させて来た道を走った。

 

逃げるように湖から走り出したのに森から抜けることができない。できないどころか湖に帰ってきてしまう。もう何度もそんなことを繰り返している。
帰れなかったらどうしよう。死ぬつもりで森に入ったはずなのに、目からはぼたぼたと涙が零れる。もう森から出られないのかな。湖のまわりをぐるぐる回って疲れ切って死ぬのかな。嫌だ。死ぬならもっと楽に死にたい。散々な思いをしてまで死ぬのはごめんだ。
また目の前には湖がある。人魚は変わらず湖から半身を乗り出してニコニコと上機嫌にこちらを見ていた。足が動きを止める。もう走れなかった。人魚の目の前で膝を折り、その場で崩れ落ちるように倒れた。
「もう走るのはやめたの?」
「逃げられないんだろ……」
荒い息を整えようとするのに咳が出る。ひゅーひゅーと呼吸が空回る耳障りな音がした。心臓がうるさいほどに早いリズムを打って、元々泣きながら走ってたのにさらに生理的な涙が溢れる。
「やだ、目が真っ赤よ。冷やせばいいの?」
「知らない……」
「冷やせばいいのね。なら湖の水を使うといいわ。ねえ僕、こっちにいらっしゃいな」
人魚が手招く。逆らえない魔力は感じられなかったが大人しく湖のほとりまで這った。なんでもいいから喉の渇きをどうにかしたい。
外気にさらされる彼女の腕に水が纏わり付くように絡んでいる。粘液でも溜まってるのかと疑ったがそうじゃないのは手を突っ込めばすぐにわかった。冷たくて気持ち良いけど、ただの水だ。手ですくうのも億劫でそのまま頭を突っ込むようにして水を飲む。考えなしに突っ込んだのですぐにわかった。ただ一気に飲みすぎて途端に咽る。湖の淵に着いた右手がずるりと滑ってそのまま右上半身が湖に落ちた。咄嗟に左手で体を支えるが悪寒に背筋が震える。身が竦んで危うく前進湖に落ちるかといった所で、水中から人魚が尾を使って押し出すようにして補助してくれたおかげで何とか湖から体を上げる事に成功した。しばらく咳こんでいると「これ使う?」と人魚がさっき渡した、水を吸ったシャツを重そうに両手を使って差し出してきた。
「使わ、ない。穴、あるだろ。そこに腕、入れて、羽織るんだよ。ボタンも、しめて」
咳が弱まったタイミングで指示を出す。おれが息を整えている横で人魚は大人しく従ったが、羽織った所で眉を寄せた。
「きつい」
「悪かったなチビで!」
湖に腕を入れ人魚に水をかける。ばしゃんと派手な音がしたが人魚は目も閉じなかった。目を開けて水の中を泳いでいるのだから当然だ。
「ボタン?のしめ方がわからないわ」
「いいよもう羽織ってくれてれば」
サイズもそうだが主に胸囲が苦しいらしい。ボタンは諦める。なにも着てないよりましだ。
「目、大分戻ってきたわねえ。丈夫な子。もうお話しできるかしら?そうだ名前は?」
こてんと首を横に倒し人魚が聞いてきた。髪が水面に揺れていて綺麗だった。星の光を受けて湖と一緒にきらきらと輝いている。絵画の中の女神はこんな姿をしているんだろうか。
「……あんたなんなの?つか、なんで人魚がこんなとこにいんの。海の底に住んでるって聞いたんだけど。本当に人魚?」
おれの目を覗き込んでいた人魚の尾がまた水面を叩く。こいつ距離近いな。退屈って言ってたし、人間が珍しいんだろうか。
「私は人魚で間違いないわよ?あと、私の名前はスピカ!人魚でもあんたでもないわ」
音にすると「すっぴっか!」だった。自己主張の激しい人魚だ。
「じゃあ、スピカ。話って何すればいいの?悪いけどおれバカだから何かを教えることはできないよ」
「ばかって何かしら。いいえとりあえず何かを気にしてるならそれでも構わないわ、普段どんな暮らしをしてるか教えてくれるだけでいいのよ。あとこの森がどんな風だったかとか、どうやってここまで来たのかとかお話してくれればいいだけなの。ね?簡単でしょう?一緒にお話ししましょうよ」
人魚は必死な様子だった。そんなに話相手が欲しいのだろうか。人魚でも暇を持て余したりするのかな。
「じゃあその話っていつまで?おれ帰れるの?」
「帰るの?」
「ずっとここになんていられないよ。朝には帰れるようにしてくれるなら、いいよ」
本当は帰りたくないけどついそんな事を言ってしまう。村に帰ればまた石を投げられるような生活に逆戻り、おれの計画を崩してくれた人魚が少し憎らしかった。
だとしても人魚は人魚、魔法生物だ。どんな力を持っているかわからない。偉そうだったかな。怒らせたら怖かったけど人魚は少し残念そうな顔をしただけで「いいわ」と頷いてくれた。
「朝までここにいてくれるんでしょ?外の話を聞かせて」
「あんたここから出たことないの?」
「この湖から出られないのよ」
「なんで?」
「水場がないもの」
人魚の答えは簡素なものだった。簡素だけど大きな問題だ。多分人間で言うところの「間に大きな川が流れてて」みたいなことなのだろう。森にはこの湖以外水場は無さそうだった。人魚はここから出られないのだ。
「そっか……うん、わかった。ちょっとなら話してもいいよ」
「お話の前にまだ僕の名前を聞いていないわ。朝になったら帰ってしまうけど、それまではお友達でいたいのよ」
お友達。その単語に釣られたのかもしれないし、もしかしたら例の魔力の宿った言葉だったのかもしれない。あんなに警戒して言うまいとしていた名前がするりと口から出てきた。
「ジャン。朝までよろしく」
「ずっとここにいてくれてもいいのよ」
「言ったろ、朝には帰るって。約束守ってくれるんだよな?」
「……ええ。それに私にあなたを引き留める術はないもの、勿論よ。約束は守るわ。こちらこそよろしく、ジャン」
てっきり人魚が迷いの魔法をかけておれを迷わせてたんじゃないのかと思っていたのだがそうではないらしい。魔法生物だから魔法が使えるものだと思ってたけど、水場がないと移動もできないらしいし、想像してたより強い生き物だという訳ではないのだろうか。
「ねえどこから来たの、森はどうだった?」
考えてる内にぐぐっと人魚は一気に距離をつめてくる。長い髪が揺れて人魚に纏わり付いてた水の一滴が開いた口に飛んできた。
さっき飲んでわかってたけど、やっぱり普通の水だった。見た目はあんなに澄んでるのに。本当に天馬は来るのかな。

 

 

「西の村の悪魔ってのは君のことかい?」
声をかけてきたのは三十代半ばの屈強な大男だった。無精ひげを生やしているので厳つい印象があるが、人好きのする好意的な笑顔を浮かべているので怖くはなかった。
「あんた誰」
この質問はつい先日もした気がする。先日と言ってもあの森に入り込んでからもう二週間が経とうという頃だ。あの日の記憶も細部は忘れつつある。
「俺はミハエル。一昨日近くの街に来た旅一座の者だ。住民から君の噂を聞いてやってきたんだ」
男は律儀に名乗り手を差し出した。握手を求められているらしい。怪しい奴だが一応握り返しておく。
「冷たい手だな!」
んだとこらぶっとばすぞ。ぐっと拳を握るけど、勝ち目が無いのはわかってるので一先ず握るだけに留めておく。
「この村で悪魔って呼ばれてる奴を探してるんならおれだけど、本物の悪魔を期待して来たんならこの村に悪魔はいないよ」
昼間の人通りがある道でこんな会話ふっかけてくるとはデリカシーのない大人め。慣れてはいるがそう悪魔悪魔言われればおれだって傷つくのだ。親切な対応をする気はなかったのにミハエルと名乗った大男はおれに鬱陶しい程好意的な笑みを向け続けている。
「本物の悪魔なんて探したりしないさ。なあ少年、俺と来ないか?」
怪しい大人め。脛を蹴って全速力で家に帰った。

 

「まあ。それって危ないことだったの?」
「絶対人さらいだと思ったんだ。違かったけど」
「違ったの?」
「勧誘されただけだった」
あの後。おれなんかの蹴りだけでそう足止めができるわけもなく、家に逃げ込んで息を整えていたら普通にドアを叩かれた。狭い上に壁の薄い家なので家の中にいても外の声は聞こえる。張りのあるバリトンボイスが高らかに少年よとおれを呼んでうるさいノックをしてきた。家に入るのを見られているので居留守も何もなかったが徹底的に無視を決め込んだ。しばらくして打撲音とうめき声が聞こえてキレた近隣住民に殺されたかと思いドアを開けたら変な恰好をした女が大男を伸している所だった。落ち着いて話ができたのはその女のおかげだった。なんでも二人は近隣の交易街に滞在中の旅一座に所属しており、大男に至っては団長を勤めているという。そしてその街で「ずっと先の辺鄙な村に悪魔と呼ばれる少年がいるらしい」という噂を聞いて興味を持ちおれを見に来たという訳だった。ちなみに大男が一人で詐欺っぽい勧誘を一人でしかけてきたのは全くの独断で、本当は明日にでもゆっくり大男をのした女と二人で来る予定だったらしい。大体は大男の言った通りだった。口から出まかせではなかったことにちょっと申し訳なくなったけど奴が失礼な大人に変わりはなく、家の少ない茶菓子を食い尽くして帰って行ったのでとくには態度は改めなかった。母さんは終始困ったように、だけど嬉しそうに笑っていた。
これだけでも十分に迷惑だったが売り飛ばされるよりは随分ましだった。次の新月を待たずに(新月の後も勿論)船にぎゅうぎゅう詰めにされて海を渡るなんてことはしたくなかったのだ。
あの晩、おれは次の新月の夜に必ず来ると約束して森を出た。朝になったら返すという約束を人魚――スピカは守り、おれは快く返してくれたお礼にとさらに次は人間の使う物をいくつか持ってくると約束を重ねた。あれからこつこつこの無知な人魚が喜びそうな物を集めていたのが報われ、現在スピカはおれの目の前で髪飾りをつけてご機嫌に遊んでいる。
「断ったのよね?あなたが来ないとつまらないわ」
「あんたのためじゃないけど、おれなんも芸できないから断ったよ」
「そう。ならよかったわ」
それだけ言うとぱしゃりと水を跳ねさせてスピカは湖に潜っていった。外界との接触の手段が奴隷になるかもしれなかったっていうのに素気ないものだ。でもこんな距離感も嫌いじゃなかった。スピカの隣は心地良い。
覗き込めば底まで透けて見える湖なので潜ってもスピカが何をしているかはわかる。湖底にある彼女のプライベートスペースである大きな貝に、おれの持ってきた物の中であげたものを大事にしまっているのだ。
「ねえこのほんっていうのはどうしたらいいかしら。水につけてはいけないんでしょ?」
湖から顔を出したスピカの頭にはすでに髪飾りは着いていなかった。青っぽい濁った色の石で造られた花の髪飾りで、花弁の一つがとれてしまったものだった。本当は母さんの髪飾りだったのだけど、随分前に髪を切ってしまったので使う機会がないからともらってきた。母さんはおれの突然の収集癖にも嫌な顔一つせず付き合ってくれた。スピカの頭を悩ませる本も母さんがくれた物だった。
「陸の方に置いといたら。気が向いたら上がってきて読みなよ」
「字なんて読めないわ。その辺りに置いておいてくれる?私はこの湖から出られないから」
「それ前も言ってたな。ちょっと陸に上がったりできないの?文字表持ってきたから教えるよ」
「水は人魚の空気よ。少しくらいなら我慢できるかもしれないけど、私は無理。ありがとう」
「そっか。人魚も大変なんだな。どういたしまして」
「そうよ、人魚も大変なの。もうちょっと待って、全部しまっちゃうから」
そう言って人魚は今度は赤ん坊用のスプーンを持ってあの大きな貝のところに行ってしまった。
後は持って帰らなくてはいけないものばかりだったのでいそいそと鞄の中に詰めてしまう。このままだとあの好奇心旺盛な人魚に全部ぶんどられてしまいそうだったのだ。予想はついていたが戻ってきた人魚は置いてあったはずの残りの人間たちの生活用品が無くなっているのを見つけると眉を寄せ頬を膨らませた。一目でわかる不機嫌さだった。文句が飛び出してくる前に別の話題を振ることにする。
「あの貝何?」
これはおれの好奇心からの質問だった。あんな貝知らないし、こんなところではあれを作ることもできないだろうに。
スピカは不機嫌な面持ちのまま「私の卵の殻よ」と答えた。
はて。いまこいつは自分の卵の殻と言っただろうか。
「私は卵の時にここに流れ着いたから」
「卵なの!?」
いやまあ魚類だから、いやいや魚類でいいのか人魚。というか卵の殻ってどういうことだ。
「人魚の卵って貝なの?」
「そうよ。近くで見たい?」
驚いたおれに何故か機嫌を取り戻したスピカはふふんと腕を胸の所で組んで自慢げに言った。性格悪いなこいつ。当初の目的を忘れて「泳げないからいい」と仏頂面で返してしまった。おれが機嫌悪くなってどうする。スピカは調子を良くしたまま続けた。
「人魚の卵は真珠貝なのよ。それも特別な真珠貝。満月の光と星の欠片と綺麗な水が無いとどれだけ人魚が卵を産もうが中身は宿らないのよ」
流石は魔法生物様だ、誕生するのにも美しいものを集めてこないといけないらしい。満月の光と綺麗な水はいいとして、星の欠片ってどうするんだろう。気になったがそこは説明してくれないらしい。スピカの歌うような語りは止まらない。
「綺麗で温かい海の底に、たまに普通の真珠貝より大きな真珠貝があるわ。それが人魚の卵。卵から孵っても人魚はその貝をとても大切にするの。果てしなく広い海で生きる人魚たちにとって自分が産まれた殻程安心できる場所は無いのよ」
スピカは軽く目を伏せ、そして月の無い夜空を見上げた。その下半身と同じ、森の緑を溶かした湖の色をしている瞳だ。寂しそうな横顔をしている。憂い気な表情をしていても、垂れ気味の目を縁どる真珠色の睫毛がきらきらしていてとても綺麗だった。
「……スピカはなんでこの湖にいるんだ?家族はいないの」
意地の悪い質問だったことに言ってから気づいて後悔した。スピカはちょっとだけ傷ついた顔をして、でもすぐに困ったような笑みに変わった。おれのやったシャツの裾をいじりながら落ち着いた声でスピカは教えてくれた。
「人魚は初めて飲んだ水のある場所でしか生きられないの。この湖は小さな地下水路で海とつながっているわ。私はまだ小さな卵だったときにここに流れ着いてしまったから。……家族のことはわからないわ。私は産まれてこの方他の人魚に会ったことすらないし、ここには人魚はいないから」
初めて会ったときのことを思い出した。スピカは退屈だと、暇でしょうがないと繰り返し言っていた。人魚の寿命がどれくらい長いのかは知らないけど、おれたち人間よりずっと長寿だってことは知ってる。きっと途方もない時間をこの湖でたった一人で過ごしてきたのだ。
「私は産まれてすぐこの湖の水を飲んでしまったわ。他の水場には行けない」
「……そっか。不便だな」
「ふべんって何かしら。退屈でしょうがないのよね」
「めんどくさいってことだよ。文字やる?」
「お願いするわ!」
急に声が跳ねる。正直な尾鰭もびちびちと水面を叩いている。スピカはあまり落ち着きがない。
教えると言ってもおれ自身読めるだけで書けはしない。ただ母さんは小さい頃はおれに絵本を読んでくれたし、今も自分が読んでる本をおれに読み聞かせてくれたりする。文字や言葉はそこで自然と憶えた。だから文字を憶えたいなら本当はおれが本を読んでやったらよかったんだろうけど、生憎すらすら読める程言葉を知っているわけでもないのだ。スピカの何かしら攻撃を回避するにはスピカ自身に文字を憶えてもらうのが手っ取り早い。辞書を持ってこれたらよかったけど家には母さんの辞書の一冊きりしかないし、そんなもの中々手に入らない。言葉はもう、おれと話して憶えてくれないかな。
スピカは色々なことを知ってるけど本当は何も知らないみたいだった。自信満々に話してても後で「らしいのよ」とか「って聞いたわ」とかがつく確率が高い。さっきの人魚のこともそうだった。休憩中に聞いてみたらなんと妖精に教わったという。妖精とは何かしら。
「この森って妖精いんの?」
「いるじゃないそこらじゅうに。人魚のことも他のことも全部妖精たちに教えてもらったのよ。彼女たちは物知りさんが多いから」
妖精は物知りなのか。字読めたりするのかな。聞いたらスピカはしばらく宙に視線を漂わせ、やがて首を横に振った。人間社会に興味を持つ異端者はスピカ一人だったらしい。
「そういえば木の妖精があなたに謝ってるわジャン。なにかされたの?」
「わかんない。なにされたのおれ」
「……迷わせた?って言ってるわ。彼女声が小さくて聞き取り辛いのよ。とても臆病な子なの」
迷わせたってもしかしておれが森をぐるぐる走り回ってたあれだろうか。臆病な妖精におれは殺されかけたのか。しかし謝られて許さないのは男らしくない。気にしてないよと適当な方向を向いて言ったら「レティシアはこっちよ」とスピカが反対の方向を指さした。レティシアさんって言うんだ絶対忘れない。
「スピカというのも妖精たちがつけてくれたのよ」
「へえ!意味はあるって?」
最早妖精の存在を疑うようなことはしない。言葉尻が刺々しくは無かっただろうか。スピカは特に気分を害した様子はない。細かいことは気にしないタイプなのだろうか。
「星の名前よ。湖底に輝く真珠星。それが私」
スピカは丸く切り取られた空を見上げる。今日は新月、空は快晴。星々の輝きは相変わらずの美しさをもって湖にきらめきを分けている。
「どれだろう、おれ星とかわかんなくて」
「今ちょうど見えるわ。ほらあそこ。一等明るい星があるでしょう?」
スピカの細い指がついと空を指さす。何か一つを迷いなく示しているんだろうけどおれには空を指さしているようにしか見えなかった。
「どれ?」
おとめ座があるの、あの広い星座……は、わからないかしら」
「ごめん」
謝るとスピカは「いいのよ」とやはり気にした素振りも無く空を指さし続けた。微妙に手の位置や指の角度が変わっている。
「じゃああっちに輝く白い星はわかる?しし座のデネボラという星よ。あのオレンジ色の明るい星がアークトゥルス、その横の青白い星がスピカ。この三つを結んで春の大三角で」
「待ってわかんないわかんないわかんない!どれ?今どの星の話ししてる!?」
慌てて話を遮ると語りモードに入っていたらしいスピカもつれれるように一気にヒートアップしてきた。ぶんぶんと腕を振るものだから水面がびちゃびちゃとうるさいことになっている。
「だからあれよ!あれがアークトゥルス、あっちがスピカ!色の違いが美しいでしょう!?夫婦星よ、ちゃんと見て!」
「どっちもわかんないって!」
「だからあれだってば!」
「あれでわかるか!どこだよスピカー!」
騒がしいやり取りはスピカが一時停止するまで続いた。曰く「オンディーヌに叱られちゃったわ……」。おれには声も聞こえなかった。妖精だろうか。しおらしいスピカと並び湖のほとりに腰を下ろす。手で湖の水を掬い喉を潤す。落ち着いて飲めば普通なんかじゃなく美味しい水だっていうことがよくわかる。その辺の湧き水よりずっと好きな味だった。
「前にあなたの目を湖の水で冷やしたことがあったでしょう?冷やしたほうがいいっていうのもあの子たちに教えてもらったのよ。オンディーヌは早く冷えるようにって水を冷たくしてくれたわ。あなたが来ると妖精たちが楽しそうにしてるからすぐわかるわ」
くすりとスピカが笑う。好奇心が強いのは妖精たちも同じなのだろうか。よくわからない。
「オンディーヌっていうのは?」
「湖の主よ。とても力の強い妖精なの。今も湖底から私たちを見てるわ。……見える?」
スピカが湖底に転がる青い石を指さす。ただの丸い石だ。
「ごめん、見えない」
「そう。仕方ないわね」
スピカが寂しそうに見えたのはちょっと都合が良過ぎるかな。とぷんと小さな音をたててスピカは底へと潜っていった。オンディーヌと話しているのかもしれないし、例の殻から何かを取ってきているのかもしれない。
しばらくするとスピカが湖の中央あたりから顔を出した。笑っている。ちょっと意地の悪い笑い方だ。
「オンディーヌがあの髪飾りはあなたにも似合いそうだって。着けてみる?」
スピカが遠くから、きっと彼女の視界ではちょうどおれの髪を梳くような仕草をした。
「冗談。こんなきったねえ頭にあんな綺麗なのは似合わないよ」
「そうかしら。アシンメトリでとっても素敵よ」
それこそ悪い冗談だ。おれの髪は基本的には灰色だが所々に深い青色の髪の束が混ざっている。親族の中にこんな色の髪を持つ人間はおらず、おれが悪魔と呼ばれる一因でもあった。茶色とか金とか黒とか、おれはそういう一色の髪がほとんどな人間とは違って見えるらしい。たかだか髪の色だけど、それを理由に悪魔だと囁かれるのは少々堪える。おれがそう呼ばれることによって母さんにかかる心労も多いのだ。
「オンディーヌは貴方に興味を持ってるみたい。あなたからは水のにおいがするって」
しばらくおれには見えない妖精と会話を楽しんでいたスピカが楽しそうな表情のままでおれに告げる。人間じゃない人(?)からすればおれはそう異端な存在ではないのだろう。待遇が変わるわけじゃないけど、少しだけすくわれた気がした。
「ありがとう。でもおれ水は苦手なんだ。ガキの頃からそうでさ、川で洗濯とか食器洗いとかもダメで、ずっと屋敷の掃除をしたりしてるんだよ」
「水が怖いの?」
その問いには迷いつつも頷いた。溺れる恐怖ではないけれど、水を恐れているのに変わりはない。
「水に入ると、水に溶ける感覚がしてさ」
水に入るとおれはいつも、水に飲みこまれるような、水に取り込まれるような、水そのものになってしまいそうな、そんな恐怖に包まれる。

 

「それはコントロールができてないからだ」
真剣そうな声色だ。ミハエルの珍しい真面目な様子に思わず背筋が伸びる。背筋は伸びたけど視線は落ちた。ミハエルの真っ直ぐな瞳がおれを射抜かんばかりに見つめているのがわかった。恐ろしい真摯さだった。
ミハエルは公演が終わってからも交易街に滞在しているらしい。いつも新鮮な果物が手に入ったとか外国のお菓子が売ってたとか言いながら手土産を提げて家を訪ね、来る度におれに一緒に来ないかと勧誘を続けている。彼の旅一座への勧誘だ。しかも下働きとしてではなく演者として。団長自ら公演が無いとは言え一座を離れ、こうして熱心に勧誘をしているのだ。スピカに言ったようにおれは断り続けているのに、ミハエルは嫌な顔一つせずまた来るなと言っては冗談交じりに色んな話をおれに聞かせてお土産を置いて帰っていく。そしてまたそう日を置かずに家にやって来ては最近家に寄り付かない父さんの代わりに家の力仕事まで請け負ってくれているのだ。母さんもすっかりミハエルに気を許しているようだった。警戒しているのはおれだけだ。
「水に溶ける感覚なんて、それはお前が、魔法使いとして強い力を秘めた純度の高い原石である証拠でしかない。ジャン、俺の国では魔法使いのことをジェムと呼ぶんだ。お前たちの存在は世界の宝なんだよ」
ミハエルがおれの手を取る。大きくてごつごつした大人の手だ。痩せ細った母さんの冷たい手とも、奉公先のおれを殴るご主人の怖い手とも、父さんの火傷しそうに熱い手とも、触れたことの無いスピカの柔らかそうな手とも違う。
「俺の知る魔法使いたちは皆銀細工のような瞳をしている。ジャン、お前の瞳と同じ色だ。彼らの色素は遺伝と全く関係ない色を宿す。生まれながらの魔法使いは全員そうなんだ」
手が熱い。この熱さが健康な人間の体温だということはわかっている。怖いものではないけど体が危機を感じて飛びずさりそうになる。力が強い。父さんと同じだ。でも父さんの手じゃない。触れてると心がくすぐったい。あったかい。優しい手なんだ。
「一緒に来ないか。最初に来た女がいただろう?あいつも魔法使いだ。あいつは腕の良い奴だから、あいつから魔法を学ぶといい。きちんと学べば力の暴走も起きない」
暴走とは何のことだろう。
「……お前は俺たちと一緒に来るべきだと思うぞ、ジャン」
優しい手をしてる、怖いくらい真摯な瞳の、きっと良い大人のミハエル。だけどお前の事を信じようとは思えない。
おれが魔法使いな訳がない。万が一魔法使いだったとしたら、おれはとっくに母さんの病を治している。魔法使いはおとぎ話の中の住民だ。不可能を可能にする救世主。
おれは現実に生きている。夢は見ない。
早く次の新月になるといい。ミハエルなんかと話してるよりスピカと話すほうがずっと楽しかった。

 

 

「ジャン、好きなように……生きなさい」
愛してるわと言い残して、あっけなく力ない手は垂れた。その春最後の雨の日だった。
にわかに暑さを感じるようになり、季節はそのまま雨季に入った。酷い雨が続いている。
月には大きな魔力があるらしい。王家お抱えの、職業としての魔法使いたちはその力を使って結界を張っている。ミハエルが教えてくれたことだ。技術としての魔法なら都市にいけばそこそこ普及しているらしくて、雨雲で月が隠れているから新月の夜と同じように結界が薄くなっているらしい。これもミハエルが教えてくれたことだ。学校のないこの村にいては知る機会すらないようなことをミハエルはたくさん教えてくれる。ありがたいけど申し訳ない。おれはミハエルの望むようにはきっとなれないのだ。
スピカに会いたい。会って話がしたい。
ミハエルの話通り、結界はほとんど意味を成していなかった。ただ結界を通り抜けたその瞬間、どこからか濃い水の匂いと、雨音ではない水が落ちる音がはっきりと聞こえた。
不快感は無い。安心する感覚だ。沈んでいた気分が少しだけ浮上した。
湖まで走っていこう。今日はいつまでもあそこにいよう。
天馬を見ることは結局できなかったけど、人魚が見れた。おれが見た中では一番綺麗な生き物だ。もう充分だ。
今度こそ死んでもいいかもしれない。そうしよう。スピカにありがとうとさよならを言って、あの美しいものをかき集めて産み落とされた好奇心の塊みたいな人魚の隣で果てるのも悪くない。

 

いない。スピカに会いにきたのにスピカの姿は見えなかった。雨に波打つ水面を覗き込んではじめて湖底でスピカが膝を(正確には尾鰭の付け根を)抱えて小さくなっているのがわかった。水面を挟んで目線が重なる。スピカからおれがどう見えてるかはわからないけど、おれからはスピカの姿が歪んで見えた。真珠色の豊かな髪と同じ色の丸くて大きなたれ目、なめらかそうな肌、高いけど落ち着きを持って話す声、傷一つない健康そうな腕。スピカの形は全部憶えているけど、ちゃんとその姿が見たかった。
「スピカ、おれだよ。こっち来ないの?」
スピカは長い髪をゆらゆらと揺らして首を横に振った。聞こえてるのかな。それとも全然違うジェスチャーなのかな。こっちには来ないのかな。話がしたいのに。
まあいいやと湖のほとりに座り込む。あんなに怖かった水が嘘みたいに魅力的に見えて、思わず靴を脱ぎ捨てて足を湖につけてみた。ミハエルの貸してくれた礼服の裾が濡れてわずかに重みが増す。足で水を揺らしてもスピカは湖底で小さくなったままだった。
「今日は来てくれないの?じゃあおれ勝手に喋ってるから。別に聞いてなくてもいいし。でもそこにいてな、寂しいから来たのにひとりぼっちで愚痴なんて寂しいのがおっきくなるばっかで嫌なんだよ。スピカがそこでこっち向いてくれてるんだったらもうそれでいいし」
少なくとも一人ではない。ミハエルみたいなおれを混乱させるような相手もいない。父さんみたいに攻撃してくる人も。一人で逃げてるよりずっとましだ。スピカには聞こえてない一方通行だけど。
ざわざわしてた頭の中がここにいるとすっと落ち着く。多分湖のおかげでもある。ここの水はしっとりしてるから。最初にスピカと会った時に感じた絡みつく感じは錯覚じゃなかった。受け入れればその分をきちんと返してくれる。この水はおれの隣にいてくれる。何を受け入れたのかはよくわからなかった。ただそうあるべきものがすとんと落ち着いた。それだけのことだと思う。
あとはスピカがいるから。たった三度会っただけの人魚は、おれにとって宝物みたいな存在になっていた。
湖底の宝物に語り掛けるふりをして独り言を声に乗せる。無意味な一人遊びみたいでちょっとおかしくて、なんだかすごく楽しい気分になった。
「母さんが病気だったんだ。おれを産んでからずっと調子が悪くてさ。最近は特にひどかったんだよね。どんどん体が冷たくなってく病気で、医者には何回かかかったんだけどどいつもこいつも原因がわからないから手の施しようがないって言いやがって。でも良い医者にかかれるような金なんてなかったから……頑張って働いてたんだけど、間に合わなかったんだ」
ついこの間のことだった。今日は母さんの葬式だった。雨の日に体温を奪われて死んだ母さんは冷たい雨に打たれて土に埋められた。棺に入れてもらうだけのお金があって良かった。こんな雨の日の土に触れたらきっと冷たい。がたがた震える最期の母さんの様子が忘れられなかった。天国に寒さが無いことを心から祈っていた。最期は雪解け水みたいな冷たさだった母さんの手が、土の下で凍っていないか少し心配だった。
「なあスピカ、おれの母さん死んじゃったんだ。あの日、体温が下がりすぎて。母さんは冷たくなって死んだんだ」
母さんはもういない。おれのことを唯一愛してくれた人だった。村八分にされて、おれをよそにやろうと言った父さんにいいえと返してくれた。いいえ私の息子です。私が私の手で育てます。おれの最初の記憶だ。抱きしめてくれた母さんの、まだ少し暖かかった体温をよく憶えている。母さんのために必死に働いたけど、母さんを助けることはできなかった。父さんはもうずっと帰ってこない。葬式はおれとミハエルだけで行った。家には請求書が届くようになった。父さんは確かに母さんを愛していたはずだった。おれがいたから家が嫌いになったんだ。家が嫌いになった父さんは賭け事に傾倒するようになっていた。
「父さんはおれのことなんてどうでもいいみたいだ。……おれ多分、売りに出される。どっか遠くの国で奴隷になるのかもしれないし、そのへんの下働きとしてこのまま働き続けるのかもしれない。父さんに金は行くのかな。でもそれでもいいなって思ってるんだ。おれは父さんに、つぐないってやつをしないといけないんだってさ」
いつかおれを殴りながら父さんはおれに「つぐなえ」と繰り返した。母さんは言葉の意味を教えてはくれなかった。聡明な母さんの痛ましい横顔がよぎる。いい意味でないことだけを理解した。
「最初にこの森に来た時にさ、父さんに言われたんだ。おれがいるから母さんの体が悪くなるって。だからおれ、死のうと思って。死んでいなくなったら母さん良くなるんじゃないかって、それでつぐないができて、父さんにゆるしてもらえたらいいなって思ったんだ。でもどうせ死ぬんなら最後に綺麗なものが見たくて……母さんが読んでくれた絵本に出てきた天馬にしようって決めたんだ。それに天馬の羽って病払いに良いって聞いてたし。だからここに来たんだけど、天馬には結局会えず仕舞いだし、死ねなかった。……スピカと話してて、死にたくないって思ったんだ」
湖を覗き込む。最初の時みたいに落ちかけたら助けてくれるかな。雨が強くなってきた。もうスピカの姿を視認することはできない。
「スピカ出てきてくれよ。一緒に話そう?」
慰めてくれとは言えなかったけど、スピカならわかってくれるんじゃないかって。
スピカはひとりぼっちじゃないけど交友関係を広める機会が無いみたいだから、きっとおれのこと大切にしてくれるんじゃないかって。たくさん話して分かり合えるんじゃないかって。
その晩だけの一時的なのじゃなくて、ちゃんとした友達になれるんじゃないかと思ったのに。
「出てこいよ」
なんでずっと湖底にいるの。
もうおれとは話さないのか。神聖な魔法生物様はおれみたいな母親殺しの悪魔と罵られる汚らわしい人間とは同じ空気を吸うこともしたくないのか。
「なんとか言えよ、スピカ!」
振りあげた腕を水面に叩きつける。バランスが崩れて顔から湖に落ちた。抵抗はしなかった。水は柔らかくおれを受け止めたし、包み込むようにして底へと導いてくれた。それにやっとスピカが見えた。おれの吐き出した息の泡の向こう側に目を見開いたスピカがいた。さえぎる気泡が邪魔だ。息を吐きつくして、スピカに手を伸ばす。
触れたこともないスピカの手。やわらかくてあったかい記憶の始まりにある母さんの手。きっと同じようにおれに優しい手だ。スピカ。スピカ助けて。もういやだ。このまま死にたい。どこにも行きたくないよ。
別に抱きしめてほしかったわけじゃなかった。体温を確認できたらいいなとは思っていたけど。湖の水に紛れた涙を拭ってほしいわけでもなかったのだ。
スピカはおれの襟を掴んで水面まで引き上げた。重みがある上におれ自身に陸に上がる意思が無いので再び湖に沈む。スピカの口が開き「たすけて」と音を出さずに動いた。おんなじことを言ってる。スピカ。伸ばしたかった手は動かない。ぐんと湖が波打ち、おれは陸地に打ち上げられた。
「っげほっ、ごほっ!ごほっ、は、っは……う、うう」
死んでもいいと思ったのに体はあさましくも酸素を求め体内に入り込んだ水を吐き出す。苦しい。水の中にいた時のほうがよっぽど楽だった。
ああでも死にたくない。死線を越えればもう死は恐怖でしかない。辛くて苦しくてたまらないけど、みっともなく生にしがみついていたくなる。
生理的な涙にまざって情動の涙が落ちる。あの時と逆だ。スピカには泣き顔ばかり見せている気がした。
「あっ、げほっ、ありがと、スピ」
言葉は続かなかった。
スピカはそこにはいなかった。どこにいるんだろう。ぐにゃぐにゃの視界で湖を見下ろすけどスピカはどこにも見当たらなかった。かすかにぴしゃりと口を閉じたスピカの卵の殻が目に入った。普段は僅かに開いていたはずだ。引きこもってしまったのだろうか。
姿が見えないならいないのと同じだ。陸と湖底とじゃ世界が違う。聞こえる音も感じる温度も近づく方法さえ違うのだ。一歩踏み出せばまたおれはスピカの世界に行けるけど、それは死に繋がる行為だ。スピカも同じだろうか。でも陸に上がれなくてもいつもみたいに上半身をこっちに出してくれればいいだけなのに。どうしてスピカはおれを押し上げたんだろう。どうしてスピカの世界からおれを追い出したんだろう。
「……スピカ?」
呼びかけに答えは無い。ただスピカと話がしたくてここに来たのに、結局おれは一人だった。
「……そっか、わかった。もういいよスピカ。もうここには来ない」
寂しいけど仕方が無い。おれは置いて行かれるのが一番嫌いなんだ。
「さよなら」
濡れ鼠になっても寒さは欠片も感じなかった。それに湖に落ちた時の感覚。そういうことだった。漠然とだが確実に、おれの中では一つの問題に決着がついていた。

 

「ジャン!どこに行って……ってどうしたそれ!?そんなに濡れて……どれだけ心配したと思ってるんだ!とにかく早く中に、風邪をひいたらどうするんだ。今何か熱い飲み物を淹れるから、体を拭いて。ああよかった帰ってきてくれて、本当に心配したんだぞ……!」
棒立ちのまま玄関から動かなかったおれを部屋の中に引き入れて、ミハエルが大きなタオルで乱暴におれの頭を拭いてくれる。
ぐちゃぐちゃな言葉だ。とても混乱して、とても怒っていて、とても安心してくれている。ミハエルの様子がおかしくて少し笑えた。不審がって手を止めたミハエルの大きな手を握る。父さん程じゃなくても熱い手だったはずだ。もうそんなことはなかった。ただの手だ。手を放すと、ミハエルの手は水で濡れていた。
「寒くないんだ」
「え?」
「湖に落ちたんだ。雨にも降られた。なのにちっとも寒くないんだ。それに湖に落ちた時全然息苦しくなかった。ミハエルの言ってたことやっとわかったよ。おれは水に溶けるんじゃない、おれが水だったんだ」
自分の手を見ると、体に浴びていた水が嘘みたいに消えていた。全部おれの中に溶け込んだのだ。逆に少し念じれば指先から小さな水の玉が零れ、そのうちぼたぼたと床に水たまりを作るほどの量の水がおれの指先から吐き出された。
「どうして今までわかんなかったんだろう。すごく落ち着くというか……しっくりくる。おれはこんなふうであるべきだった。やっとわかったよ」
頭の中でたぷんと水が揺れる音がした。おれの体はグラスのようなものなのだろう。水を入れるためだけの器。おれの中身は水で満たされている。
色々なことを理解した。人の体温を熱いと感じたのはおれがずっと冷たいものだったから。水が怖かったのはコントロールできなかった頃のおれが無意識に水と同化して自分の体積を減らしたから。母さんが冷たくなったのは、耐性が全くないのにその胎におれみたいな冷たい水の塊を一年も宿していた後遺症みたいなものだったのだろう。母さんの体温を奪ったのはおれだ。父さんの言った通りだ。母さんを殺したのはおれだったのだ。
ミハエルの言ったことは正しかった。おれはミハエルたちについていくべきだったのだ。誰かを冷たい水に沈めて溺死させてしまう前に。
「あの話受ける」
ミハエルがタオルを落とす。驚愕に開かれた目が見えた。今日はこんなのばっかだな。
「ジャン、髪が……青く」
窓を見やると、確かにさっきまではほとんど灰色だった髪は青の割合のほうが高くなっていた。ああ、中途半端に力を持っていたからあんなに異端に見えたのか。誰に教えられなくても納得がいった。多分魔力の量が色に比例しているのだろう。髪の色と引き換えに、瞳の灰色が濃くなったように見えた。いつかミハエルの横にいた、魔法使いの女の瞳と同じ色をしていた。
「一座に入団しないかって話。受けるよ、ミハエル」
心配をしてくれた。抱きしめてくれた。おれのために怒ってくれた。
欲しかったものをこの人はくれた。スピカみたいにおれを一人にはしなかった。
大事なことをたくさん教えてくれた。これからどうすればいいのかも、ミハエルが全部教えてくれるはずだ。
寂しいのは嫌いだ。ひとりぼっちももう嫌だ。
「おれを連れてって」
おれはおれを必要としてくれる人のところにいたいのだ。
綺麗なものなんてなくても人は生きていけるのだから。

 

 

妖精たちがざわめいている。何年ぶりだろう。この森の妖精たちは静かで穏やかな子たちが多いからこんなことは希なのだ。現に私は、数年前少年が森に入り込んだ時しか妖精たちのざわめきを聞いてはいない。
長寿な人魚の私がここまで成長するのに随分時間がかかった。妖精たちの姿は変わらないまま、実体のない姿で私に色々な事を教え私を育んだ。森の妖精たちは私の師、オンディーヌは私の母だ。変わらない穏やかな日々を好む妖精たち。彼女たちに育てられたのにどうして私はこんなに強い好奇心を持ったのだろう。人が来たのだろうか。そう考えるだけで胸が躍る。話が聞きたい。今外はどんな風になっているのかしら。人の服はこのまま変わっていない?あの本私一人じゃとても読めないの。誰か教えて。外の世界のことを妖精たちはあまり私に教えてはくれなかった。彼女たちは外の世界を嫌っている。
湖の水が揺れる。誰かが走ってこちらに向かっているのだ。地面の振動とオンディーヌの動揺が私にそのことを教えてくれた。
天気は快晴。結界が弱まる新月の夜じゃない、こんな昼間の太陽が高い時間にこの森に入ってこれる人はどんな人間なのかしら。水面に出ようとして動きが止まった。人に会うのは少し怖い。でも知りたいの。しょうがないわ、私は私の好奇心を抑える術を知らないんですもの。短い期間で私にたくさんのことを教えてくれた少年の姿が浮かんだ。あの時のようにたくさん話がしたくてたまらなかった。
ああでも仲良くなってはいけないわ。また失敗してしまったらきっともう立ち直れない。最後に見たあの子は泣きそうな顔をしていた。もしかしたら本当に泣いていたかもしれない。私のせいでとても可哀想なことをしてしまった。こんな体では彼の元へ行って弁明することも謝ることもできず、彼がまたここに来てくれることを願ってしばらく過ごした。彼は二度とこの湖に来ることはなかった。人の暦で二年が経った頃に私は彼を諦めるように決めたのだ。自業自得ね。
もうあんなことは御免だわ。やっぱり殻に閉じこもっていようかしら。くるりと元居た方に向きを変えたら、ばしゃんと大きな音がした。
上を向けばたくさんの気泡を身に纏って沈んでくる人影があった。太陽が眩しくて人の姿ははっきりとはわからない。でも彼が落ちてきた時に私は人が水の中に長くいてはいけないということを学んでいる。早く引き上げなくちゃ。尾鰭を素早く動かして人に近づく。
ごぼごぼと口から息を取りこぼす人はしかし、苦しそうな素振りを見せてはいなかった。
どこからか雲が流れてきたのだろうか、水を揺らす風を感じる。太陽が僅かに翳って人の輪郭が見えた。袖の短い白いシャツ、厚そうな生地のズボン、見たことの無い形の靴。人は丸い石のついた装飾の美しい長い棒を片手に私に向かって泳いできた。
間違えて落ちたのではないの?疑問を抱くより先に人の手が私の手を掴む。嘘、いやよ触らないで。人は皮膚が爛れてしまいそうに熱い生き物なのに。本当に爛れたりしないのはオンディーヌが守ってくれているのかしら?もしかしたら彼が手にはめている布袋のおかげなのかもしれない。どちらにしろ恐ろしいことに変わりはないので必至に振り解こうとするのに人の力が強くそれは叶わなかった。放して!願いは届かないまま人は私の手を引いてどんどん水面に近づき、そして私を引き上げるようにしながら自分は陸にあがった。太陽が眩しい。人は彼よりも髪が長かった。青い髪が顔に張り付いていて表情が見えない。
「こっちおいでよ、今日はいい天気だから気持ち良いぜ」
「やめてっ放して!お願いよ陸に上がったら死んでしまうの!」
目の奥がつんと痛む。じわじわと視界がぼやけた。目が熱い。これは何?
「泣くなよ、心配しなくても死んだりしないから。大丈夫だよスピカ。落ち着けって」
嘘よ私は水が無いと死んでしまう、そんなこと私が一番良く知っている。放して。もう一度言おうとして、思考が止まった。
この人、今私の名前を呼んだ。
人が軽く頭を振って水滴を飛ばす。湖に落ちたはずの彼はそんなことなかったみたいに乾いていた。服も今水滴を払った髪ももう水の名残は無い。
なのにその人からは濃厚な水の匂いがした。冬の空気より冷たくて凛とした、それでいて春の雨のような甘い水の匂い。湖そのものの匂いだった。記憶してたより随分濃い匂いだったけど、私はこの匂いを持つ人を知っている。あの日湖に落ちて、そのまま湖に受け入れられようとしてしまった可哀想な僕。
「久しぶり、スピカ」
声が、髪の色が、背丈が違う。たった数年でこんなに変わるものだろうか?それでもあの頃と変わらない銀のきらめきをまとった灰色の瞳はこちらを見ている。丸い瞳は妖精の羽とよく似た色をしていたからよく憶えていたのだ。
「ジャン……?」
「うん。久しぶり」
記憶にあるより随分すっとした面差しのジャンはからりと笑った。あの頃とは表情が違う。気配もどこか違うし、彼は本当にジャンなのかしら。疑う頭とは別に、心が彼を彼だと私に知らせていた。彼はジャンだ。
「スピカ、全然変わらないんだな。人魚ってどれくらい長寿かわかってないから時間の感じ方がどれくらい違うかわからないんだよな。久しぶりで通じる?つい昨日のことみたいとかじゃないよな?」
声が低い。高くて可愛らしかったジャンの声が好きだったのに。たまに妖精がくれる花の蜜みたいに爽やかで甘くい声。湖が揺れた。オンディーヌが動揺しているのだ。
「ジャン、あなた……」
「何?」
ジャンが私に手を伸ばす。触れる直前で、彼は少し悩んだ末に手に被せていた布袋を取り去ってぽいと地面に投げ捨てた。彼の右手の小指に小さな青い石の嵌った指輪が輝いていた。いつかジャンがくれた髪飾りと同じ色をしていた。
「スピカ」
甘い声が私をくすぐる。どうしたらいいの。尾が勝手に水面を叩いた。ジャンが正面から盛大に水を被る。やっぱり水はすぐに乾いた。
「…………スピカ?」
「あっやだごめんなさい!そんなつもりじゃなかったのよ!」
はあっと大きく息を吐いてジャンがまた湖に飛び込む。今度は私が水を被った。その一瞬でジャンは私の目の前に来て、そして再び、今度は何も挟まずに私の手を掴んだ。
「だめ、触らないで!」
成長しきっていない少年の手が私の手を捕まえた。逃げられない、振りほどけない。
「大丈夫。信じて」
――でも熱くない。
ジャンが私の体を抱きしめる。おかしいわ、痛みが無い。
皮膚が爛れそうなほどの熱を彼は持っていなかった。それどころかとても冷たい。もしかしたら私と同じ程に。
魚のような体温でこの子はどうやって生きているのかしら。
「ジャン、あなたとても冷たいわ。どうしたの?」
「どうもしないよ。おれはずっとこうだった」
ここまで体温が落ちたのは一人前の魔法使いになれたからだけどね。そう言ってジャンは再び湖から上がった。私は最早彼の手を振り解こうとはしなかった。引かれるままに湖の淵に腕を置いて上半身だけを草に寝かせる。あの頃と同じ体勢だ。
「一人前の魔法使いってどういうこと?ジャン、あなたどうしちゃったの?」
「うーん、どこから話そうかな。言い訳からでいい?」
良いわけないわ。でも口を出す前にジャンは話しはじめてしまった。
小さい頃から悪魔と呼ばれ村でのけものにされてたこと。魔力を持たない身で自分を産んだばかりに亡くなってしまった母親のこと。父親に売り飛ばされそうになっていたところをいちざとかいうところのだんちょうさんとやらに拾ってもらえたこと。そのいちざで他の魔法使いのもとで魔法の勉強をしたこと。
とても辛いことばかりを話すのに、ジャンの顔は穏やかなものだった。全て過去の話なのかしら。この子にとってはもう辛いと感じることすら遠いことなの?
私たちはどれほどの時間離れていたのかしら。
「スピカ、おれは悪魔なんかじゃなかったんだ」
「自分が悪魔だと思っていたの!?」
「いやまさか本物の悪魔だとは流石に思っちゃいなかったよ。災厄を招くような存在だとはまあちょっとは思ってたけど……見て」
ジャンは地面に置いていたあの綺麗な棒を掴んでくるりと器用に手の中で回してみせた。棒の描く軌道上にぽつぽつと水の玉が浮く。感動で水滴が止まって見えているのかと思ったけど、その水の玉はジャンが棒で地面を叩くと形を変えながらどんどん大きくなって、最後にはジャンが開いた腕で抱く程の大きな一つの水の塊になって静止した。
「水の魔法使いだったんだ、おれ」
太陽の光を浴びて水が明るく光る。光は水の玉から抜けて森や湖や私や、そして誰より近くにいたジャンにきらきらと眩しい光を届けた。
「スピカ、おれはもう水そのものと言っても過言じゃないんだって。師匠が言ってた」
水の玉に片手を入れながらジャンはもう片方の手でまた棒を振るった。棒の先端に据え置かれた玉の回りに付いた装飾品がしゃりんと涼しげな音を立てる。また見る間に水の玉が生まれ大きさを持ち、今度は私の前で大きな水の玉が静止した。
「人魚の話も聞いたんだ。旅の途中でさ、魔法生物に詳しいお客がいて」
ジャンの腕の中の水の玉が私の目の前のものと一緒になり、一際大きな水の玉が形成される。私とジャンが二人で入っても余裕がありそうな大きさだった。とても澄んだ色の水。まるで湖のようね。
「最後に会った日を憶えてる?おれはスピカに見放された気分になったんだ。すごく悲しかったよ」
「っそんなことない!私はただ……!」
水面から出られなかっただけで、あなたを見放すなんてそんなこと。ずっと言いたかった弁明はジャンの柔らかい言葉で止められた。
「うん、ごめん。今はちゃんとわかってるよ。スピカは雨から逃げてただけだったんだよな」
人魚の私は最初に飲んだ水以外の水場では生きられない。この湖が他の水場の水とは決定的に違うことは感覚で知っていた。地下水路で繋がる遠い故郷とも空から降ってくる雨とも違うもの。そして人魚にとって生活圏内以外の水はただの真空の水場だ。私は水の違いに特に敏感で、この湖以外の水は私には毒でしかない。だから私は雨が降ると湖底にある私の安全領域である卵の殻をぱくりと閉じて引きこもるようにしているのだ。
ジャンはたくさん言い訳をしたのに私にそれを許してくれない。ジャンは深く頭を下げた。
「ごめんスピカ。あの時本当はありがとうって言うつもりだったんだ。酷いこと言ってごめん。ずっと来なくてごめん。来るのに時間がかかってごめん」
「やめて、私謝られるようなことはなにもされてないわ」
「おれは謝りたいことがたくさんあるんだ。スピカ、許してくれとはおれは言えない。だからどうやって償おうか考えて、考えて……考えたんだ。やっぱりおれは馬鹿だから、あんまりいい考えは思いつかなかったんだけどさ」
「償いなんて言わないで!ジャン、私こそごめんなさい……!あなたが一番辛かった時に私ったら何もできなかったわ。本当にごめんなさい……っ!」
私がジャンのズボンの裾を握って頭を下げると彼は大げさなほどに慌てて「やめろよ!」と叫んだ。声が裏返って少しあの頃の可愛い高い声に似てた。
「おれはただ、スピカにお礼がしたいんだ。おれはスピカに救われたんだ、謝られたらどうしたらいいかわからない……」
ぽすりと軽い音を立ててジャンが地面にへたり込む。ふよふよと浮いていた水がまるで慰めているかのように彼の回りに集まった。水の魔法使いになったジャンは水に愛されているみたいだった。
私は恐る恐るジャンの手に触れる。びくりと彼の体が震えた。冷たい肌。水に触れてるように気持ちがいい、受け入れられる気分になる不思議な手。
骨の形に凹凸したその手をきちんと両の手で包み込む。あんなに小さい僕だったのに、こんなに大きくなってしまったのね。
「ジャン、あなたがここに来なくなってどれくらい経つの?百年?二百年?それとももっとかしら」
「残念だけど人間はそんなに長生きはしないんだ。おれが村を出て六年だよ。おれ十八歳になったんだ。もう酒が飲める歳なんだぜ」
「さけって何かしら」
「大人の飲み物だよ。こんなやり取りも久しぶりだなあ!」
懐かしくってたまんないよとジャンは笑った。私も釣られて笑顔になる。六年なんてあっという間なはずなのに、どうしてあんなに長い間離れていると思ったのかしら。
ジャンが棒を地面に置いた。とたんに水が弾け、その水は全て彼の体に戻っていった。ぽちゃぽちゃと水が揺れる音がする。ジャンの体から聞こえる音だった。今彼の体にはたくさんの水が溜まっているのかしら。水でいっぱいになったジャンからは強い生命力を感じる。人魚は魔法に敏感だ。この生命力はいわゆる魔力というものらしいから、ジャンは本当に立派な魔法使いになれたのね。
私の安心をよそにジャンは少し表情に影を落とした。どうしたの、私が聞く前にジャンは私の前に跪き手を伸ばした。見つめられると照れてしまう。ああ、前より絶対に瞳の銀が増えているわ。だってこんなに輝いているなんて、星の欠片が入り込んでるとしか思えない。
星の欠片は人魚の誕生に必要な三つの要素の一つだ。満月の光と綺麗な水と星の光。それらは何も本当に実物が必要という訳ではなく、満月の光は天からの祝福、綺麗な水は両親の愛、星の光は奇跡の比喩だ。人魚に限らず、素敵なものに恵まれてはじめてこの世に生れることができるのが生き物なのだと思う。
その奇跡を散りばめた瞳が真剣な様子で私を見つめる。それだけで祝福された気分になれるのに、ジャンはとんでもないことを口にした。
「スピカ。外に行きたい?」
行けるものなら行きたいわ。外には一体どれだけ素敵なものがあるんでしょう?たくさんの物にあふれているという外の世界は私の憧れだった。ジャンは私にその一端を見せてくれる伝道師。ジャンはいつだって私を楽しませてくれる。でも。
「無理よ、そんな……だって私ここから出られないわ」
また目の奥がつんとする。ジャンは笑って目の下を撫でてくれた。そして慰めるように優しい声で、内緒話をするように耳元で小さく囁いた。
「出れるって言ったら?」
出れるってなんのことだろう。この湖から出れるっていうこと?この森から出れるっていうこと?それより遠くのことなんて私にはわからない。人がたくさんいるという街には?故郷の海は?私はどこまで行けるのかしら。
「スピカ、おれなら君をここから連れ出してどこまでだって行けるよ。おれにはその自負がある。自信じゃない、それができるだけの実力があるんだ。おれのことは信じられない?なんでここから出れないのか教えてくれないか?」
湖が大きく震える。どうしたのオンディーヌ、そんなに焦って。
「森の妖精たちはこの湖の水は他には世界のどこにもないものだって言っていたわ。とても珍しい、特別な条件が重なってできたものだから、これから他に新しくできることも無いって」
それにもし他にこの湖と同じ水が溜まった水場ができたとしても、私はそこまで行く術を持たない。ここから出ることは不可能なのだ。
でもジャンはやっぱりねと笑っただけだった。
「そんなことだろうと思ったよ。スピカ、それはちょっと違うんだって最初に言っておこうかな。でも妖精たちがそんな風に君に教えたのも納得だな。だって君は彼女たちにとても愛されているみたいだから」
ジャンの視線が私から、私よりずっと奥、湖底の中心に向かった。湖底の中で一番美しい澄んだ青の丸い石。そこにはいつもこの湖の主、オンディーヌが腰かけて私や湖を見守っている。ジャンはオンディーヌを見て、そして目を合わせているように見えた。かつてのお気に入りに見つかりオンディーヌは警戒心を露わにこちらを睨みつけていた。
「睨まれちゃった。怖い怖い」
「ジャンあなた、妖精が見えるの?」
「見えるよ。そういう瞳になったんだ。魔法使いの瞳にね」
そういうジャンの瞳は銀の色が強く瞳自体が淡く発光しているように見えた。これも見たことある、妖精の瞳ね。オンディーヌたちと同じ瞳。
「彼女がオンディーヌ?綺麗な人だな。薄い青の髪が好きだ。アクアマリンみたいな綺麗な色をしてる。触れたらきっとおれはまたコントロールを失って、オンディーヌに溶けてしまうね」
湖が激しく揺れる。ジャン黙って、オンディーヌが照れているわ。このままじゃ湖の魚たちが怪我をしてしまう。
「冗談だよ。ちゃんと力をコントロールできるようになったんだ。髪の色が落ち着いただろ?まだらだったのって魔法使いとして未熟だったからなんだって。変な話だよな、どうして髪の色で魔法使いの質がわかるようになったんだろう。スピカ、一緒に調べに行かない?」
それはとても魅力的は誘いだった。わからないことを自分で調べられるなんて、私はどうしたらいいんだろう。そんな手段を得てしまったら私は自分の好奇心を抑えられる自信が少しも無い。紅潮した頬を隠しもせずにジャンの差し出してくれた手を取ろうとする。
「あら?」
「どうしたスピカ」
「手が上がらないわ……水が重いの」
困ったわ、どうしましょう。思わずジャンに縋るような視線を向けてしまう。湖がまた大きく波打った。ジャンは苦笑している。「大丈夫」今日はもう何度ジャンにそう言われたかしら。たった六年でジャンはとても成長したように感じられた。
すっとジャンが立ち上がり、じわりと彼の足元から水が滲み溢れはじめる。さわさわと空気が揺れた。森の妖精たちが彼に注目している。それがわかっているのだろう、ジャンは声を張り上げた。
「妖精たち!」
彼の声は森中に響いていた。妖精も、他の森に住む生き物たちもきっと彼の言葉に耳を傾けている。
「おれは水の魔法使いだ、この意味がわからない御方たちじゃないだろう!?おれなら絶対にスピカを乾かせたりなんかしない!定期的に顔を出すことも約束する!だから」
高らかに宣言していたジャンの声は段々と小さく、震えていった。そして最後には懇願するように頭を垂れて、湖の底のオンディーヌに懇願するように呟いた。
「だからおれに、スピカをくれませんか……」
湖は一度穏やかに揺れ、私は感じていた重みから解放された。水面から腕を出すと、ジャンはほっとしたような顔をして、次の瞬間体を折って一番大きな声で「ありがとうございます!」と叫んでいた。
湖底ではオンディーヌが優しい表情で私に手を振っていた。ジャンが顔をあげると、今度は茶目っ気たっぷりのウィンクで彼に投げキッスを飛ばしていた。オンディーヌ、もう。

 

ジャンの生み出したあの大きな水の玉の中に入って彼の後を着いていく。と言っても私は宙に浮かぶそれの中にいるだけで、動いているのはジャンと水の玉だけだ。ぷかぷかと空中を漂いながら、私は不思議と落ち着いた気分で森を出ようとしていた。
「本当に苦しくないのね」
「生まれて初めて飲んだ水って、あの湖……つまり妖精の住む湖だ。あれは妖精みたいな神聖な生き物が住む、特別な結界に守られた、不純なものが何一つ混ざらない清浄な水だ。確かにスピカの水場はあそこ以外には無い」
水場が無いというのは本当のことだったらしい。だけどその後は嘘。
「妖精の湖は魔力の満ちた湖だ。あそこは月が出てればその光もたくさん受ける。特別な湖だけど、あの水はおれみたいな天然モノの水の魔法使いが生み出す水そのものなんだ。おれも落ちて初めて知ったんだけどね。んで、湖とは違っておれなら好きなように水を生み出してこうやって移動もできる」
ジャンが棒(ステッキと呼ぶらしい。魔法使いの必需品だとジャンは胸を張っていた)を軽く横に振ると私を包む水の玉が動きに合わせてジャンの反対側に回り込む。便利なものだ。
つまりは私を湖の外に出したくない妖精のついた嘘で私はあの水場に閉じ込められていたのだ。と言ってもジャンが来なければ私は天然モノの魔法使い(とても珍しい、生まれながらにして強い魔力を持つ人のことらしい)に会うことは無かったのだし、彼の魔法が水じゃなければこうしてふよふよ宙に浮いていることもできなかったのだから害のある嘘ではなかったのだけど。
「ともかくおれなら君にあの湖をあげられる。おれが水の魔法使いで本当に良かった。やっとスピカにお礼ができるんだ」
このまま私たちはジャンがお世話になっているいちざに合流するらしい。いちざはたいりくというところよりもっと遠く、海を渡った土地にも行くらしい。途中で海が見えるよとジャンは教えてくれた。彼の水の玉の中にさえいれば海の中に入ることも可能だという。人魚の住む海域を調べてあるともジャンは言っていた。長命な人魚なら、もしかしたら会ったことも無い両親に会うことができるかもしれないとも。
私はこんなに楽しみなことでいっぱいなのに、ジャンはなんだか浮かない顔だ。
「ジャン、なんでそんな顔をしているの?何か不安なことがあるの?」
「いや、そんなことは……あるんだけど」
あるのね。教えて、水の玉から尾鰭を出して彼の頬をぺちぺちと叩く。
「危ないから大人しくしててって。…………えっとスピカ、一座の移動は全部馬車だ。一応おれは個人のもらってるんだけど、そんなに広くないんだ。手狭な思いをさせると思う」
「そんなことないわ。この水の玉の中にいるのとても楽しいし」
「ミハエルはそんなこと絶対しないと思うけど、もしかしたらスピカを見世物にしてしまうかもしれない」
「たくさんの人に会っていろんな場所にいけるんでしょ?構わないわ」
「一気に色んな人がいるところに行くからびっくりするかも」
「隣にジャンがいるなら全然平気よ」
あら可愛い。真っ赤に染まった顔を腕で隠しながらジャンは「うー」と唸った。やっぱりまだまだ可愛い僕ね。安心したわ。
くすくす笑っていると腕からちらりと視線だけをこちらによこした。
「まだ心配ごとがあるの?」
優しく聞いてあげると、まるで少年のような声で、控えめなおねだりでもするようにジャンはおずおずと聞いてきた。
「……ずっと一緒にいてくれる?」
それは私があなたに聞きたいことね。
「ずっとなんて無理よ」
ぴしりとジャンの動きが止まる。ふふ、憶えているかしら。あなたもそう言って私を悲しくさせたわ。
「でもあなたが私の水場を作ってくれるなら、私はあなたにどこまでだってついて行きたくなっちゃうわ」
そう、どこまでだって。ジャンがいるならきっと楽しい。たいりくとやらを制覇して、海に出て、人魚に会えたらとても嬉しい。海の向こうのたいりくとやらはこことどう違うのかしら。知りたいことがたくさんありすぎて困っちゃう。
「……団長に頼んでバスタブを買ってもらったんだ。大きいやつ。おれの馬車に積んどいたから、そこがスピカの当面の湖だ。狭いけど我慢してくれな」
「ばすたぶって何かしら」
「風呂だよ。お湯ためて浸かるんだ。おれの水をそこに貯めるからスピカはそこで……」
可愛いジャン。あなたが私に世界を見せてくれるなら、私はあなたに何を返しましょうか。
あの日教えた星は憶えた?夜になったら聞くわね。憶えていないんだったら私が教えてあげる。春も夏も秋も冬も、ずっと眺めてる夜空ですもの。今度はその手を掴んで一個ずつ確認しましょう。六年経ったのよ、私だってもっとちゃんと上手く教えられるわ。
一番最初に真珠星を見つけてくれたなら、どうしましょう、やっぱり私がうれしいだけね。